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戦後70年ー西遠の記憶

ご遺族に聞く

橋本みつ様

昭和20年5月19日、動員学徒として通っていた工場を襲った爆撃で姉を失った橋本みつ様が、平成27年度の殉難学徒慰霊式に手記を寄せ、西遠の生徒に当時の様子を語ってくださりました。
橋本様は体調を崩されたため、当日の式典にご出席いただくことはかないませんでしたが、頂戴した原稿を校長が代読させていただきました。

殉難学徒慰霊式に寄せて


昭和27年5月 殉難学徒・教員合同慰霊式

 本日ここ、西遠女子学園におかれましては、大庭学校長のもと、各方面から関係者、並びにご遺族のご出席をいただき、全生徒さんも出席され、盛大な、第70回動員学徒の法要を挙行されますことに遺族の一人といたしまして、大変うれしく、心より感謝の意を表します。


 私は、東京に住んで55年になりますが、今日ここに、語り部として貴重な時間をいただきましたので、当時、いわゆる70年前の学徒動員や、さらに、浜松、磐田の戦渦をつぶさに体験した一人と致しまして、どうしても皆さんにお話をしたいと云う思いと、戦渦に散った私の姉ら29名、引率教員1名への御霊へのご供養となってくれることを、心より念じ申し上げお話をさせて頂きたいと思います。

 昭和19年7月25日、ついに西遠女子学園にも動員命令が下ったのでございます。

 いつ爆撃されるかわからない工場の中で、生徒達は、日本の勝利を信じて、いや日本を勝たせなければという信念を持って、働き続けたのでございました。

 戦争中は、河合楽器も鈴木織機も軍事工場として使われていました。昭和20年4月30日、河合楽器に対し、また、同じ年の5月19日、鈴木織機に対し、まだ空襲警報も出ないうちに、突然にものすごい音と共に、次々と爆弾が投下されたのであります。


 5月19日、あの日の朝は、曇りで黒い雲が空を覆っていました。私の姉は、いつもと同じ通学の支度をして「行って参ります」と言って、家を出ようとしたときの事、母は決まって口癖でしたが、「大丈夫かい?気をつけにゃーいかんよ。」すると、いつも姉から出る言葉は「私たちは天皇陛下様の為よ。お国の為なんだから、おっかちゃん心配しないでいいよ。いつも言っているでしょう。」という会話でした。

 しかし、その日の昼ごろ、まさかの知らせがありました。

 鈴木織機の工場の裏地に大きな防空壕があり、そのすぐ隣りに市内を通っていた水道の本管がありました。それは人の身丈程もある太さの管でした。米軍機が空を飛んでくれば、まず警戒警報の放送、人々は当然防空壕に避難しました。その米軍機が落とした爆弾は24名と引率教員1名が避難した壕の横にある水道の本管に落ちたのです。

 一瞬にして、本管の水はあふれ出て、隣の防空壕に流れ込み、盛り土で頑丈に囲われていた壕が崩れ落ち、24名と引率の教員一名等は、泥水に埋まってしまったのです。

 防空壕の近くを通った人の話によると、空襲警報最中で近づけなかったそうですが、壕の中から聞こえて来た声は、「お母さん、お母さん、助けてー。」と苦しい中での絞り出すような叫び声だったそうです。

 警報が解除された時は、すでに声もなく、皆さんは息絶えていたそうです。後で知ったのですが、死亡時刻は、午前11時30分頃だったとの事です。


 私の家にも、学校から知らせが入りました。最初は、まだ生徒たちが行方不明との事でしたが、間もなく発見され、全員亡くなったという悲しい知らせでした。当時、私の家の兄は2人とも戦地に行っていましたので、男手は父だけでした。

 姉を迎えに行く為に、近所の人たちが、リヤカーにむしろをしいて布団を積んで、自宅を歩いて出たのですが、国道の松並木は倒れ、あちこちの道路には穴が開き、通常の往来は出来ず、なかなか前には進めなくて、何倍もの時間がかかり、大変難儀したとの事です。

 リアカーが自宅に帰って来たのは、その日の夕方くらいの遅い時刻と記憶しています。遺体は棺の中に納められて丸裸でした。

 姉は眠った様な優しい顔でした。長く伸ばした髪の毛の中には、小石交じりの土が沢山ありました。泥水に浸かっていた体は膨らんでいました。セーラー服の脇の下から袖にかけて全部ハサミで切られて脱がされ体の横に置かれていました。

姉の棺は仏間に安置されましたが、体中汚れていたので、母と私たちは「さあちゃん、どんなに苦しかったでしょうね。」と泣きながら、なんどもなんども、優しく汚れを拭い取りました。リアカーの片隅には、自分で作った布製の肩掛けのかばんがあり、中にはお弁当箱が入っていました。姉の好きなグリーンピースのご飯です。ご飯の真ん中に梅干しが一つのったお弁当は、手つかずでした。

 その日は、お昼ご飯を食べる事もなく、戦渦に皆さんは散ってしまったのです。私のすぐ上の兄は、戦後浜松市の中学の教員をつとめて定年になりました。その兄が初夏の季節になると必ず出る、グリンピースご飯を口にすることは一度もありませんでした。

 河合楽器に動員されていた西遠の生徒たちを突然襲った爆撃は、壕の入り口5メートルのところでも炸裂しました。一時は失神状態になり、入り口まで、はい出して来たが、そこには、即死された5人の痛ましい学徒が横たわっていました。と、当時、西遠女子学園3年生だった柴谷ことさんの作文で私は知りました


 生前、姉が家族に言っていたことで、「工場は戦渦がひどくなるので、近いうちに「二俣の奥に移すようになるからそれまでだ」とも言っていたそうですが、その日を待たず、学徒の生徒達は爆弾投下の泥水に生き埋めとなり、尊い命を落としたのです。母が戦争の話をするときには決まって、姉の事になり、「さだは、一生懸命勉強する優しい子だった」と何度も何度も口にしていました。

 昭和19年7月29日、浜松は艦砲射撃の雨にさらされました。それより前、6月18日の夜には、B29爆撃機の大空襲で、浜松の街の大半は焼け野原と化したのです。

 大地を震わし、遠州灘から天地を割る雷のような音で向かって来る、艦砲射撃の恐怖は恐ろしくて、今でも決して忘れられません。艦砲射撃による、浜松への攻撃があるという話が、近所に伝わると、磐田の人々は、各家が身の回りの荷物を荷車に積んで磐田原の山に逃げたのです。その時も、浜松の街は真っ赤に染まり大半が焼け、街の姿をとどめませんでした。怖くて怖くて逃げ回ったことは忘れられません。家も焼け、人々もたくさん犠牲者が出たと聞きました。

 当時、人々は空襲時の心得として、火の粉や爆風による破片から、頭部を守るために「防炎ずきん」は必携のもちものでした。


 B29が磐田原の上の方から低空飛行で、浜松方面に向かって行く姿を見ていたら、すぐその後、浜松の上空は真っ赤な火花が上がったのです。焼夷弾は、日本を空襲するために開発された、火災を起こすことを目的に作られた爆弾です。その中味は、爆薬ではなく、引火すると激しく燃焼するゼリー状の油脂ガソリンでした。

 当時、爆弾や焼夷弾は、浜松や磐田の地に無数投下されたのです。

 爆弾の落ちた後は、街中が火の海になりました。

 田んぼや畑は、大きな穴が開き、雨が降ると水たまりができ、やがて、そこにはザリガニや川魚が住み着きました。そんな沢山の穴が戦後再び農家の人々が作物を植えられるようになるまでには数年の歳月がかかった事を覚えています。爆弾は、天竜川の鉄橋を狙ったのがはずれて、浜松や磐田の地に落下したのだとか、米軍機が帰るときに機体を軽くする為に落として行ったのだという話を戦争が終ってから聞かされました。

 浜松空襲体験を記録する会の資料によると、浜松市及び周辺の空襲被害は、焼夷弾が7万9553発、投下弾は3081発と言われております。

 8月15日に終戦を迎えました。浜松や磐田では、あちらでも、こちらでも大火に見まわれたため、家々が焼けてしまい、戦後のあと片付けは大変でした。爆弾や焼夷弾が見つかり、怖い思いは、いつまでも、いつまでも続きました。


鈴木織機の発祥の地

ここで、私から西遠女子学園の皆さんにお願いがあります。
 現在の浜松市中島一丁目に「鈴木織機の発祥の地」として小さな看板が立てられて、そこが、西遠の学徒のみなさんの通っていた工場の後です。そこを通った際には、亡くなった学徒の皆さんの事を思ってあげてください。お願い致します。

 戦争の思い出は、余りにも悲惨で、悲しさと恐怖の記憶しか残っていません。今も思うと涙がでてきます。人が人を殺しあう事、これが戦争なのです。戦争は二度と決してやってはならないのです。どんな職業でも差別するつもりはありませんが、戦争のための武器を作る職業だけは絶対に嫌です。いつまでも平和な国でありますように、その事こそが、亡くなられた尊き御霊への供養であり、お誓いであると考えております。
 戦争はやりません。幸せは平和であることです。この事を切に願い、私のお話を終ります。
 ご清聴ありがとうございました。

 平成27年5月14日
                                     橋本 みつ