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戦争体験を語る


伊藤かね子様(西遠女子学園高校 第4回卒業)

高校4回卒業の伊藤かね子様は、昭和8年9月のお生まれで、終戦の時には今の飯田小学校の6年生でした。
市内の渡瀬町(当時は浜名郡でした)にお住まいで、お父様は小学校の教頭先生でした。

初めての空襲で、竹やぶの防空壕が…

私にとって初めての空襲の体験は、昭和20年の1月3日、お正月でした。それ以前にも「警戒警報」はしょっちゅう発令されていましたけれど、この時初めて敵機襲来がありました。
当時、家の干しものなどがあると、人家だとわかって艦載機の目標になって狙われると考えられていたので、竹やぶなら上から見られないから大丈夫だろうと考えて、家の竹やぶの中に穴を掘って、屋根も作り、その上に土を載せたのです。警戒警報が鳴ると、家族でそこへ避難していました。
私の父は小学校の教頭をしていたので、警戒警報が鳴れば、夜でも何でも学校に御真影を守りに行っていました。お正月といえども、それは同じです。
1月3日、私は、母、兄、妹二人と竹やぶの防空壕の中に飛び込んだのですが、飛び込んだ途端に、艦載機が来ました。空襲警報が鳴る前でした。バリバリバリっという音がして、落ちたな、と思ったんです。そしたら、今度はすぐにパチパチパチという音がして。兄が壕から出てみると、もう火の海でした。家族みんな飛び出しました。冬枯れで笹の落ちた竹やぶの防空壕だったのが、あだになったんですね。

二人の妹を連れて逃げる

一番下の妹はまだほんの赤ん坊でした。兄に「お前、この子をおぶって、ともかく風上に逃げろ!」と言われて、下の妹をおんぶして、中の妹(昭和11年生まれ)の手を引いて逃げました。
兄と母は消火活動をするというので、私たち姉妹だけで逃げました。私の実家は、飯田街道から少し入ったところ。飯田小学校から西に1キロほどのところでした。そこから、田んぼの中を北へ、風上の鉄道線路の方まで逃げました。そこまで行けば人家がないので大丈夫だろうということで。その時に、全焼した家のものすごい火が見えましたね。
その時の空襲では、町内63軒のうち、3軒が全焼しました。
部分焼までは何軒かわからないですね。ちょうど、1月3日でお屠蘇気分の時でしたから、お客様もいらして、消火の人手はあったみたいなので、大人は皆さんバケツリレーで消火したそうです。ただ、全焼したお宅は、水掛けがされなかったとか。水が足りなかったんでしょうね。
私の家は無事でした。母と兄がバケツリレーをしていました。屋根の上に焼夷弾が3発落ちたそうですが、トタン葺きだったので、助かりました。焼夷弾というのは、油なので、トタンの上でそうとう燃えたみたいですが、それだけで食い止めました。お蔵にも落ちたのですが、お蔵は鉄筋だったので、瓦が飛んだだけでした。これが土蔵だったら焼けたでしょう。幸いでした。

全焼したお宅は、トタンとトタンの間に入っちゃったそうで、煙が出ていると言ってトタンをめくったもんですから、バーッと燃え広がってしまって、全焼してしまったのだそうです。その家の方が、我が家が萱葺きだけだったところに「トタンも敷いたらどうだ。うちもやるから」とトタンを勧めてくれたお家だったんです。そういう恩のあるお家だったので、母が辛がっていたのを覚えています。

戦時中のささやかな幸せ

戦争中もお鴨江がありました、お鴨江の時には、渡瀬から鴨江観音まで歩きました。日傘やほおずきを買ってもらえるのがうれしくて。それが楽しみでしたね。
戦中、軍人さんたちが演習で来ることがあり、小学校や昔の庄屋さんのところなどに泊まりました。当時、父は教職と「在郷軍人分会長」をしておりましたので、うちにも将校さんが泊まったりしたんですね。そういう時には、それこそよそゆきの着物を着せられてお茶を運んだりして、その頃の方が物資がありましたね。その頃は、日本は勝つって思っていました。馬も柿の木に縛ってありましたし、将校さんが宿泊のお礼にとお手玉をくれたりしました。生活が悪くなったのは、昭和19年からですね。バタバタッと悪くなりました。
兄(昭和5年生まれ)は一中(今の浜松北高校)でしたので、愛知県の軍需工場に動員学徒として行っていました。学校ぐるみで行き、泊まり込みだったので、時々しか帰ってこなかったですね。もう食べるものがない頃で、工場で出たおやつの真っ黒いおまんじゅうのようなものを、家に帰るたびに持ち帰ってくれました。私が好きだと知ってたので、持って帰ってきてくれたんですね。真っ黒で、おさつまなのかお大根なのか、全然分からないものでしたが、甘かったですね。貴重なおやつを食べずに持ってきてくれて、うれしかったです。

昭和20年の飯田への空襲

1月3日から終戦の8月までの間、浜松の中心部は何度も空襲があってひどかったと思いますが、芳川を隔ててこちらは浜名郡で、浜松に比べてそんなにすごくやられることはなかったですね。でも、5月の夜の爆撃で、飯田小学校が全焼してしまいました。村役場(飯田小学校の北側にあった)も吹っ飛んで、その時、同級生の男子が一人爆弾で亡くなりました。
小学校の近くの家にも爆弾が落ちて、庭にものすごく大きな穴が開いていました。いつの空襲の穴かはわかりませんでしたが、そこに学校の焼けた机などを全部埋めたんです。勤労奉仕で、私たち小学生が焼けた机や屑を運んで穴を埋めました。子供心に、ものすごく大きな穴に見えました。
父が竜禅寺小学校に勤めていた時に、父が死んだという連絡が入ったことがありましてね。爆弾が落ちて自転車がやられたので、馬車の馬力さんが「先生が死んだ」と思ったようで。びっくりして母が渡瀬町から竜禅寺まで走って行ったら、通勤用の自転車がやられていたんですが、父は無事でした。
1月3日の空襲で助かった鉄筋のお蔵。ここが大丈夫だとわかったので、警戒警報が鳴ると、それからはいつも私たちはお蔵に逃げていました。艦砲射撃は何回もあって、外が光るとすぐに屋根の上をビューンと音がする…、艦砲射撃は一晩中続いていましたね。

8月15日の記憶

8月15日、天皇陛下のお言葉があるよというのは噂になっていました。うちにラジオがあったんですけど、ガーガーピーピー言うばかりで、ほとんど聞こえませんでした。でも、「耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び」というところだけは天皇陛下の声が聞こえたのを、今でも覚えています。
大人が「これで戦争が終わったんだ」と言って、噂がパーッと広がりましたね。それを聞いた時、「それでも同じだなあ」と思いました。というのも、飯田小が全焼してからは、何年生はどこ、何年生は稲荷山、というように分けられて、6年生の私は鶴見の分教場まで毎日通学していたので、戦争が終わっても、そこまで毎日通わなくちゃいけない、大変だなあと。それに、食べるものもなかったですしね。
それまで、日本が勝つと信じて育てられてきた私は、警報と同時に学校に行く父を当たり前と思っていました。家の中では、金目のもの・真鍮の火鉢や火箸、茶卓に至るまで供出して、家の中ががらんどうのようになって、戦後、気がつけば何もない生活になっていたのです。戦争が終わったから平和になったというより、その後の生活の苦労が何年か続きました。

クチナシで染めた黄色いライン

父が岡本富郎先生とも知り合いだったこともあり、私も西遠に行くように言われましたが、私はすごく嫌でした(笑)。受験勉強しなくちゃいけないですから! でも、私が西遠に行かないと妹二人が困ると母に言われて。私は勉強よりも家の仕事が好きでしたね。

西遠の入学試験では、口頭試問で、国語の本間先生に「婦人が選挙権を持つことを何と言いますか?」と聞かれました。喉まで出ているのにその言葉が思いつかなくて答えられず、先生に「婦人参政権ね」と言われたことが、今になっても忘れられません。
入学したのは昭和21年です。我が家には、着る物、食べる物、履く物、全部なくって。ですから、制服も用意できません。中学の受験と小学校の卒業式用にご近所の方に作ってもらったセーラー服を、高校になるまでずっと着用していました。ラインは、クチナシで染めたんです。ホントに黄色に染まるんですよ。高校になって、初めて「背広でいい」ということになり、母のお古の背広(スーツ)を着用して通いました。
新制の高等部になった時、(進学を断念して)退学された方が40名ぐらいいました。その時、お友達が図書館に勤めることになったので、私もよく図書館に行くようになりました。

戦争が終わってからしばらくは、学校近くのマンボウさんのお蔵に、西遠の本を疎開させていたんです。だから、学校帰りによくマンボウさんのお蔵に行って本を読みました。家に帰ると働かなくてはいけないので、帰りたくない日は、よくエスケープしてね。本は大好きでした。

忘れられない出会い

小さい時から、体が弱かった私は、疫痢にもなりました。そのとき命を救ってくださったのが、相生の本田医院の院長 本田銃作先生です。うちに電話がない頃で、北と南に電話のある工場を持つお宅があって、そこで電話を借りて連絡すると、往診に来てくださいました。私が疫痢になったときには、離れに看護婦さんを連れて往診に来てくださって、看護婦さんを置いて帰ってくださったので、私は隔離病舎に行かずに済んだんですよ。
母がまだ教員をしていた頃に、仕事で家を空けた時にはお土産に本を買って来てくれました。そうした本の中で、私は、ナイチンゲールの飼い犬が爪を痛めた時に、ナイチンゲールが包帯をしてあげたという話が好きで、「大きくなったら私は看護婦になりたい」と思っていました。

西遠に通っている頃、本田先生は、「看護婦になりたいならこれ読んどけよ」と言って、看護学の本(「看護学教科書)上下)を貸してくださいました。ほんとにいい先生でした。本田先生がいらっしゃらなかったら、今の私はありません。卒業後、看護の仕事に就けたのも、本田先生のおかげです。

《 終わりに 》
伊藤様がお世話になったという本田医院さんは、今も同じ場所にあります。医院の前には堀があって、セメンの橋が架けてあった…伊藤様の思い出の中にある佇まいは、今も健在です。このことをお伝えすると、伊藤様は大変感激しておられました。

取材:2016年8月