学徒動員の戦争体験
吉田安子様、三輪みよ子様(西遠高等女学校 第34回卒)
吉田安子さん(旧姓:金原)、三輪みよ子さん(旧姓:鷹森)は、昭和4年のお生まれ。
ともに、昭和17年、静岡県西遠高等女学校に入学された同級生です。女学生時代に体験された戦争の思い出を、校長の大庭が伺いました。
ともに、昭和17年、静岡県西遠高等女学校に入学された同級生です。女学生時代に体験された戦争の思い出を、校長の大庭が伺いました。
昭和17年に西遠に入学
大庭:今日は殉難学徒の同級生でもあるお二人に、戦時中のこと等をうかがいたいと思います。よろしくお願いします。お二人は「高女34回」のご卒業、西遠に入学されたのは何年ですか?
吉田:大東亜戦争が昭和16年の12月8日に始まって、17年春に西遠に入学しました。
三輪:戦争中だから、筆記試験なんか何にもなくて、いわゆる口頭試問ね。それだけで入っちゃいました。
吉田:4月の何日か、講堂で入学式がありました。
式が終わってお疲れになったのか座っていらした老校長先生を私の母が見つけて。
私の母は、大正14年の卒業生なんです。
私の手を引っ張って巌先生のところまで行って「先生、私の娘です、よろしくお願いします」って言ったの。私はもう恥ずかしくってね。
その時のことを忘れません。
式が終わってお疲れになったのか座っていらした老校長先生を私の母が見つけて。
私の母は、大正14年の卒業生なんです。
私の手を引っ張って巌先生のところまで行って「先生、私の娘です、よろしくお願いします」って言ったの。私はもう恥ずかしくってね。
その時のことを忘れません。
三輪:うちの母も巌先生に「うちの娘がお世話になります」って言ったのよね。母は市立を卒業して、今の共立女子の師範科を出て、1年ぐらいだと思いますが、西遠でお裁縫の先生をしていたんです。巌先生にお世話になってね。
吉田:その年の6月に老校長先生は亡くなられてね。その時も、入学式の後でお疲れだったんじゃないかしらと後になって思いましたね。
大庭:高女34回の皆さんはどんなクラス編成だったのでしょうか。
吉田:桜と楓、それから…
三輪:梅ね。
吉田:そして、松、藤。5クラスです。
大庭:ひとクラス何人ぐらいいらっしゃいましたか?
吉田:何年前かに名簿を作ったけれど、…(名簿を数えて)46、あ、48人だわ、名前がわかるだけで。この名簿、みんなにあげたわね。
三輪:そうね。今日も来る前に、その名簿、ちょっと見てきたわ。
吉田:教室は、講堂(※今のいちょう広場のあたりにあった旧講堂)の北に真っすぐにありました。当時の先生は、梅組を受け持ちだった中村静先生、舞阪からいらしていたお裁縫の先生で渡辺先生(女性で、私の同級生のお姉さん)、ちょっとお歳の内田先生(女性)がいました。
勤労奉仕に行く
吉田:昭和18年に2年生になって、何月ごろでしたか、ある時、運動場にみんな並んだ時に、内田先生が「ネクタイを変えなければいけない」と説明してくださってね、昔は制服に黒いネクタイをしていたんですが、その時にネクタイが廃止になって、現在のボタン式(※くるみボタン)になったんです。
戦争がだんだん激しくなって食糧に困るという時代になったので、学校でも修身堂(今の静思堂)の南側を耕して、サツマイモの畑を作りましてね。私は母が百姓してるのを手伝っていたもんだから、高崎先生という男の先生が「鍬(くわ)取りが上手だ」と褒めてくださいました。高崎先生のお顔もよく覚えてますね。
それでね、学校の畑だけではなくて、市の斎場があるところの東側まで行って、あそこもおさつま畑で、草取りをしました。
戦争がだんだん激しくなって食糧に困るという時代になったので、学校でも修身堂(今の静思堂)の南側を耕して、サツマイモの畑を作りましてね。私は母が百姓してるのを手伝っていたもんだから、高崎先生という男の先生が「鍬(くわ)取りが上手だ」と褒めてくださいました。高崎先生のお顔もよく覚えてますね。
それでね、学校の畑だけではなくて、市の斎場があるところの東側まで行って、あそこもおさつま畑で、草取りをしました。
三輪:そうそう、あそこまで行きました。それから積志にも行ったわね。大柳にも行きました。
大庭:大柳というと、南区の?
三輪:そうです。南の大柳にも出かけましたね。
吉田:斎場はね、火葬場ですからね、畑で草を取っていると、霊柩車が1日に4,5台来るの。「また来た、また来た」「怖い怖い」って言ってね。子どもだったからね。トイレに行くのも、ひゃーひゃー言って怖がりましたね。
学校に集合して、あそこまでみんなで歩いて行ったんだわね。それでおさつま畑、いっぱい作りましたね。
学校に集合して、あそこまでみんなで歩いて行ったんだわね。それでおさつま畑、いっぱい作りましたね。
三輪:積志の方は、田んぼを畑にしなくちゃいかんということで、溝を掘って、そこに木の板、「粗朶(そだ)」って言うんだけど、それを入れる仕事をしたんです。水はけを良くするために、木の枝を束にしたものをずっと入れていく作業です。
吉田:そういう仕事もしたわねえ。
動員学徒としての日々
吉田:19年の9月に学徒動員がありましてね、私たちの学年は遠州織機と河合楽器へ、ということになったんですね。私は河合楽器に行きました。
河合楽器は寺島町で、当時の社長さんは河合小市さんと言いました。
河合楽器は寺島町で、当時の社長さんは河合小市さんと言いました。
三輪:私も、ほんとは河合楽器に行くはずだったんですけど、住んでいた天王から通うのが遠いから高塚の方に換えてくれないかと言ったら換えてもらえて。それで命拾いしたかもしれません。
高塚の遠州織機は、我々が行った時には軍事の物を作っていたから、遠州機械という名前に変わっていました。
高塚の遠州織機は、我々が行った時には軍事の物を作っていたから、遠州機械という名前に変わっていました。
吉田:私は実は19年に積志の叔母のところに養女に行ったの。だから卒業名簿の苗字は高林になってます。工場へは、積志から電車(※遠州鉄道、今の赤電)で通っていました。駅が東田町、馬込、旭町…電車が途中で国道を横切っていたんです。知ってます?
大庭:はいはい、昭和50年代までは旧国道を横切って赤電の線路がありましたね。
吉田:そうそう、馬込に行ってから、今のクラウンパレスの辺りが始発・終点の旭町でした。私たちは「馬込」で降りて、河合楽器へと歩きました。毎日、防空頭巾にモンペの上下にカバンをかけて、何人も一緒になって、列になって河合楽器へ行くんですけど、娘姿には程遠い格好ですよね。
遠州機械は高塚の駅のどこら辺にあったの?
遠州機械は高塚の駅のどこら辺にあったの?
三輪:高塚駅のもうちょっと西に行ったところ。ちょっと歩いたところね。電車で高塚まで行って、少し歩いて…。
吉田:河合楽器の工場では、「落下タンク」というのを作ってたんです。落下タンクというのは、ガソリンを入れて飛行機の下の方に付けて、いらなくなると落下させるタンクだそうです。1メートル余りの長さがありまして、端の方を8枚ぐらいのベニヤ板をドリルで貼っていくんです。そのドリルでガタッガタって貼るのが、うまくやれなくて、はずれてしまってね、辛かったですね。
三輪:我々の方は、機関銃の弾を作りました。いわゆる旋盤というのがあるわけですね。上にこんな大きな輪があって、それが回って。鉄の中が空洞のパイプを切る人、ねじを作る人、ねじはオスとメスがあってね、我々はそのねじの検査をやってたの。おかしな製品があってはいけないからね。隙間ができちゃいけないから、ねじをクリクリッと回してね、全体がきちっとなればそれが合格。その検査をやってました。
吉田:そういう仕事をしてたのね。あなたの仕事、どういうことをやってたのか、今日は私も聞かなくちゃと思ってたのよ。
大庭:別々のところに行っていらしたから、お互いにどんなお仕事していたかは分からなかったわけですね。
三輪:我々は旋盤の方に入らずに検査でしょ。頭の部分と体の部分、20センチぐらいの機関銃の弾ができるわけ。旋盤の様子は分からないけれど、そこから持ってきた物の検査でした。旋盤もそうだけれど、検査の人も、服の前の方は油でべたべたになってしまうの。油が中の方までしみこんできちゃってね。
吉田:河合では、落下タンクを作って、次はシンナーを使って、塗料を塗るという工程に行くんですが、臭いが強いし、それが大変のようでしたね。塗料を塗るのも、みんなで流れ作業でした。
昭和19年12月の地震
吉田:有玉に龍秀院という大きなお寺があるんですが、昭和19年12月7日に私を連れて叔母がお寺にご挨拶に行ったんです。
「今度こういう子をもらいました」って養女をもらった挨拶ね。そしたら、お寺に疎開の子供たちが東京からいっぱい来てたんです。
4,50人はいたんじゃないかしら。ちょうど私たちが龍秀院に行っているときに大きな地震が来ました。
疎開してた子供たちと一緒に飛び出たんです。子供たち、地震に遭ってワーワー泣いて外に出たんですよ。
「今度こういう子をもらいました」って養女をもらった挨拶ね。そしたら、お寺に疎開の子供たちが東京からいっぱい来てたんです。
4,50人はいたんじゃないかしら。ちょうど私たちが龍秀院に行っているときに大きな地震が来ました。
疎開してた子供たちと一緒に飛び出たんです。子供たち、地震に遭ってワーワー泣いて外に出たんですよ。
吉田:すごい地震でしたね。
吉田:家がつぶれたお宅もありましたね。
三輪:大きな水を貯めてある用水が、それはもう激しく揺れてね。私は動員で遠州機械に行っているときに地震に遭ったんですよ。地震で建物から出てきたら、隣の建物が倒れてきたんです。倒れてきて瓦が飛んでくるんですよ。それで、横にあった防空壕に飛び込んだんですよ、みんなで。そうして壕の上を押さえてたの。工場には、各部署に監督さんがいました。私たちに仕事を説明して、教えてくださる方。地震の時に、倒れた建物で亡くなった監督さんもいました。同級生の中では、内山さんという方が、頭を怪我しましたね。だけど、思ったよりみんな逃げるのが早くて、おかげでひどいことにはならなかった。
大庭:地震の日は、電車も止まってしまいましたよね。どうやって帰られたんですか?
三輪:歩いて帰りましたね。みんな集まって、真っ黒いすすだらけの顔でね、時間は午後5時を回っていたかと思いますけどね、新居や鷲津に行く方は、豊田さんという軍需品の何かをやってたとこがあるからそのトラックに乗せてもらって帰ったのですが、東はそんなのないから、そこからずっと歩いて帰ったの。浜松の駅の方までどうにか歩いて帰ったら、空襲警報が鳴ってね。その間をくぐりながら、まあ、その日は爆弾は落ちてこなかったからね、で浜松駅から今度は天王の方へ。
吉田:じゃあ、だいぶ歩いたね。
三輪:そう、うちに着いたのは7時過ぎた頃ね。もう煤だらけでした。
吉田:まあよく歩いたねえ。
三輪:でも、市野だの、天王新田だのって人もいてね。もっと遠い人はそこから更に歩いたんですよね。
戦時中の暮らし
吉田:農家もお米を供出して、食糧が不足してくるもんですから、どこのお宅もそうだと思いますが、うちの実家も、お米は、子どもたちに必要な衣類とか、そういうものと替えたいもんですから、食事はカボチャを使って、小麦のお団子で雑炊を作って食べたから、手の平が黄色くなったのを覚えています。
当時は着るものもないし。私なんかは、母の着物、よくセルの着物って聞いたことありますか?そういうセルの着物や、綿のがらの着物だったものをつぶして、うちの釜で紺に染めて、モンペの上下を作りました。
当時は着るものもないし。私なんかは、母の着物、よくセルの着物って聞いたことありますか?そういうセルの着物や、綿のがらの着物だったものをつぶして、うちの釜で紺に染めて、モンペの上下を作りました。
大庭:きれいな色ではいけないということですね。
吉田:そうです、黒か紺に染めなくちゃいけなかったです。自分の家で、母がお釜で染めて作りました。足袋も作りましたよ。養女になって積志に行ってる私に、母が足袋がなくちゃいけないと、妹が友達と積志の私のところへ置きに来てくれたんですよ。物がなかったころですね。
三輪:12月の地震より前の頃ですが、高塚の遠州機械にいるときに、鈴木織機という工場が途中にあったのですが、そこへ飛行機が来て、機銃射撃があったのを見たことがあります。飛行機が見えたの。飛行機は動きながら撃つんですよね。操縦している人の顔まで見えましたね。
昭和20年4月30日の出来事
大庭:そして、昭和20年4月に、河合楽器の工場が爆撃を受けたのですね。
吉田:4月30日は、空襲が激しくなってきて、私たちは防空頭巾をかぶって、防空壕に入りました。B29がいくつも来て、爆弾をバンバン落としてね。落とされている間、とても怖かったですね。しばらくして静まったかなあと思って外に出てみましたら、工場が全部つぶれていたんです。砂煙がひどくてね、もうもうとしていて、外が見えないくらいでした。気づいたら、私は靴がなくて裸足でした。ものすごい砂煙を吸ってしまってね。砂煙で見えなかったんですが、竜禅寺小学校の前を東へ東へと小走りで逃げて…。
大庭:たったお一人で逃げたのですか?
吉田:そうです。とにかく東へ逃げました。
三輪:みんな逃げるときは東へ逃げましたね。
吉田:田舎の方へ逃げるのね、その途中に戦闘機がバンバンと撃つんですね。そのたびに、砂利の道路の「ぼた」(へりのところ)に貼りついて、死ぬもんか死ぬもんかと思っていました。一心に東の方へ逃げて、安松か芳川あたりのどこかのおうちに入ったんです。そしたら、そこのおばさんが優しくてね、「はあ、よくここまで来たね。お茶漬け食べるかね?」って言ってくれました。優しい言葉でした、忘れません。お茶漬け食べるかねと言ってくれたけれど、私は砂煙をいっぱい吸っているからとてもいただくわけにいかない、何も食べられなくて。なにしろすぐ向こうが三和町、すぐそばだから家へ帰りますと言って、そのお宅を出て、自宅に帰りつきました。
やっとうちに帰っても二日三日は、煙を吸っちゃって、何も食べれなかったです。息が詰まったような感じでした。そして、次の日だったかな、佐藤町の佐々木さんと西島の古山節子さんが亡くなった、と聞きました。
やっとうちに帰っても二日三日は、煙を吸っちゃって、何も食べれなかったです。息が詰まったような感じでした。そして、次の日だったかな、佐藤町の佐々木さんと西島の古山節子さんが亡くなった、と聞きました。
大庭:5月1日に佐々木さんが亡くなったと知ったんですね。
吉田:佐々木さんとはとても親しくしていたので、佐藤のおうちまで行って、お別れしましたよ。六間道路の北側のところにおうちがありました。
三輪:同期の友人は、河合楽器にいた時の爆撃で、いまだにお尻のところに弾が入っているということです。
うちの近くの西尾俊子さん(梅組)は爆風で亡くなったと聞きました。
うちの近くの西尾俊子さん(梅組)は爆風で亡くなったと聞きました。
吉田:齊藤静子さん。古山さん。佐々木さん。6人の方が亡くなったものね。鈴木百合子さん、もうお一人は…、小川房子さん。
大庭:4月30日に6名、5月19日に23名亡くなったのですね。
吉田:5月の爆撃は鈴木織機で、上の学年の方々ですね。それとお一人先生がおいでたですね。
岡本忍:殉難学徒の「愛の灯」像の裏に亡くなった方々のお名前入りプレートがあります。ここに写真があります。これで見ると、亡くなった先生は、清水はる先生ですね。
大庭:防空壕に入った24名の方の中でお一人だけ大怪我をしたけれど生き残った方がいると、今年初めてその存在を知りました。その方たちが、皆さんより一級上なんですね?
吉田:そうです。私たちの同期で河合楽器で亡くなった古山節子さん(西島町)のお母様はこないだ105歳で亡くなったんですよ。西遠を卒業した方です。節子さんには妹の翠さん(高校4回藤組)がいらして、その方がうちを継ぎました。私も4月30日に、2度ほど古山さんのお宅にお参りに伺ったことがあります。
大庭:90周年の同窓会の名簿に(死亡)として学徒の方が載っていますね。齊藤さん・小川さんは桜組。梅組は、西尾さんと百合子さん。古山さん、佐々木さんが楓ですね。
岡本:我々も5月19日の爆撃で鈴木織機さんで23名亡くなられたときに、どのように亡くなられたのかということを全然存じ上げなかったんですけど、去年初めて、爆弾が水道管に命中し、すぐ横の防空壕に水が流れ込んで、溺れるように皆さんが亡くなったと知ったんです。
大庭:亡くなられた鈴木さださんの妹さんから去年お手紙をいただいて、そういう亡くなり方だったと知りました。河合楽器の場合は、柴谷ことさんが防空壕の入り口で亡くなった方がいたと、以前NHKの番組で証言されていましたが…。
吉田:私自身は、その時には亡くなった方は見ませんでした。もうもうとした中を、とにかく裸足で逃げました。だから、6人の方がどうやって亡くなられたのか私は知りません。なにしろ、防空壕はいくつもあったですし、そのどれに入って亡くなったのか…。
そして、終戦
吉田:4年生の8月15日が終戦でした。
三輪:終戦の日は、何となくほっとしたという感じでしたね。やっぱり、戦争中は子どもながらに神経使っていたんだろうと思います。でも、死ぬということは全然考えませんでしたね、不思議と。とにかく毎日、やらなきゃいかん、やらなきゃいかん、それだけで通ってましたね。
吉田:その当時は、怖かったことだけですよね。子どもながらに言いようがなかった。着る物、食べる物はなし。自由がきかないし。終戦になって、学校に来るようになりまして、昭和21年の3月卒業でした。
富郎先生の優しさ
吉田:卒業した時に、富郎先生が、学校で卒業後も1年残って補習できるように配慮してくださいましたね。私学だからやっていただけたことですね。
三輪:希望した人が行けたのよね。
吉田:それとね、当時は小学6年を卒業する時にはお伊勢参りをしていたけれど、私たちは戦争が始まったので、行けなかった。西遠でも修学旅行はなかった。岡本富郎先生が「戦時中で運動会も修学旅行もできなかったから」と言って、昭和56年4月14日に奈良・京都へ、240人を修学旅行に連れて行ってくれたんです。今から36年前になります。その時の新聞記事、取ってありますよ。
苦労は買ってでもせよ
大庭:戦争が終わった後、食べる物、着る物がなくて、黄色いラインをクチナシで染めたという後輩もいらっしゃいます。皆さん、ご苦労されていたんですね。
吉田:だから、今のみなさんのセーラー服を見ると、ああ、私も着たいって思うの。
大庭:くるみボタンは昔のままですね。
吉田:いいですね。他の学校の制服はどんどん変わっちゃってどこの制服か分からない。この学校は変わらないからホントに好きなの。
三輪:ほんとね。
吉田:我が家は、玄関を入ると、富郎先生の言葉「草にも木にもいいことをしよう」が飾ってあって、洋間に巌先生の「越えなばと思ひし峰に来てみればなほ行く先は山路なりけり」が飾ってあります。毎日それを見ています。
贅沢に育った今の子は幸せですけど、苦労した時のことも身について、私は良かったと思ってます。
贅沢に育った今の子は幸せですけど、苦労した時のことも身について、私は良かったと思ってます。
三輪:苦労は買ってでもせよ。我々の時代はそうでした。戦時中のきちっとしたところは、私たちの身についてますね。
大庭:生徒たちが戦争体験者の方を探せない、保護者の皆さんの世代でもそういう方を探せないでいるので、私たち教員が戦争を知っている方のお話をこうして聞くことで、記録を作り、たくさんの方に読んでいただいて、戦争の記憶を風化させないようにしたいと思っています。
岡本:同じ学校の先輩の話は生徒の心にも入ります。
大庭:今日はお暑い中を西遠にお越しくださり、貴重な資料もお持ちくださってお話をお聞かせくださり、本当にありがとうございました。
吉田:西遠の空気を吸わせていただいてありがとうございました。
三輪:私も久しぶりでした。ありがとうございました。
吉田様は、10年前、西遠四代で「100周年記念誌」にもご登場いただきました。今もいろいろな会のまとめ役としてご活躍中です。そして、茶目っ気たっぷりにお話する吉田様をニコニコと見つめる三輪様。西遠で出会い、70年以上にわたる名コンビという感じです。お二人は、昨年夏の高校演劇部のアクト大ホール公演「夕空」も応援してくださいました。殉難学徒の同期として辛い思い出も心に秘めながら、矍鑠(かくしゃく)として前向きなお二人の姿に、西遠魂を感じました。
取材:2016年8月
取材:2016年8月