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殉難学徒同期生の皆さんに聞く


殉難学徒同期の皆さん

 2017年10月14日、4名の卒業生の皆さんがホテルのラウンジにお集まりくださいました。高女34回(昭和21年3月)卒の梅組の皆さんです。皆さんは米寿の年を迎えられた今でも、2ヶ月に1回このホテルに集まり、「梅の会」を開いていらっしゃるそうです。
 動員学徒として工場に通う日々の中、昭和20年4月30日の浜松への大規模な爆撃で友を失い、自らも死と隣り合わせの体験をされた皆様に、その時の記憶を語っていただきました。
 お話してくださったのは、次の4名の皆さんです。
 長谷川智子さん、小島 節子さん、牧野 和子(旧姓鈴木)さん、鈴木美恵子(旧姓阿部)さん 
昭和20年、長谷川さん、小島さん、牧野さんは河合織機(今の河合楽器)に、鈴木さんは遠州機械(今の遠州製作)に配属されていました。

長谷川智子さん(高女34回梅組・昭和21年3月卒)の戦争体験

 当時、私は寺島町に住んでいました。動員学徒として、河合楽器に通う日々でした。昭和20年4月30日の空襲では、河合の工場を爆撃されただけでなく、寺島町の自宅も失くしてしまいました。
 昭和20年4月30日。その日、私の働く第二工場に男の人が3人やってきたことを覚えています。その後、私たちに「隣の工場へ行け」との指令が下り、私は隣の工場に移りました。
 空襲があったのは、隣の工場にいた時でした。警戒警報で突然爆弾が落ち、普段と違う持ち場にいた私は、いつも入るように指定されていた防空壕とは違う防空壕に入りました。もちろん定員オーバーでしたが、ぎゅうぎゅう詰めの中、真ん中に入れてもらいました。
 防空壕では、必ず目や耳を両手で覆っていました。何も見えない中、突然の爆風で、体が天に上がって行くのを感じました。瞬間、「ああ、自分の体はズタズタになってしまったのだ、もう死んでしまったのだ」と思い、父や母に「ごめんなさい」と心の中で詫びました。そのうち、体が下に下がってきた感覚がありました。自分は死んでいない!そう分かった途端、逃げなくちゃと思いました。
目を開けると、防空壕の入り口に、生き埋めになった人の頭部がありました。そこを通りぬけ、外に出ました。
どこに逃げたらよいのかも分からないまま逃げました。逃げていく途中、竜禅寺小学校の近くで敵の艦載機グラマンの爆音がしました。道端に掘られている無蓋の壕(ふたのない防空壕)に飛び込んで、機銃掃射から逃げました。飛行機が去ったので、壕から出て、三島町の神社に向かいました。
 そこが集合場所だと決められていたわけではありませんが、自然と皆さん三島の神社に集まっていました。国語の池谷(いけや)先生もいらっしゃいました。池谷先生は、可美村(当時)の和尚さんだった男の先生です。もう一人の女性の木俣先生とお二人で、私達の通っていた河合の工場の担当教員をしてくださっていました。木俣先生はその日偶然お休みでした。
神社で出会った池谷先生のズボンに血のしぶきがついているのを目にして、先生もご苦労されたのだ、大変だったのだと思ったのを覚えています。
 逃げる途中、私はどこかで下駄を片方失くしていました。かぶっていた帽子を足袋代わりに履いて逃げたことを覚えています。
 一方、寺島に住む育ての母と、掛塚に住んでいた生みの母は、一生懸命私を探していたそうです。あちこちに置かれた遺体を一人一人見て、智子ではない、この人も違う…と確認して回ったと、後になって聞きました。
 この日の空襲で寺島町の自宅も焼けてしまったので、それからは生みの母の住む掛塚に身を寄せました。池谷先生が掛塚まで家庭訪問に来てくださったのを覚えています。
私は長いこと血痰が出て、なかなか治りませんでした。きっと空襲の日のひどい爆風のせいでしょう。咳をして吐くたびに血が混じったものでした。

鈴木美恵子(旧姓阿部)さんの戦争の記憶

 私は今の南区高塚町の「遠州機械」に学徒として通っていました。河合楽器に行った方のように工場が直接空襲に遭うような怖い思いはしませんでした。
 でも、昭和19年12月7日の地震はひどかったです。同じ工場で、挺身隊の人が亡くなったそうです。工場は地震でつぶれてしまい、私の自転車もペチャンコになってしまいました。だから、地震以降は、自転車もなく、徒歩で工場へ通いました。そして、それからというもの、つぶれた工場の材木の釘を抜く作業を毎日していました。物のない時代でしたね。
 当時の校長の岡本富郎先生は、戦時中に学生時代を過ごした私たちの学年が修学旅行もなかったのを不憫に思って、戦後、修学旅行に連れていって下さり、私も参加しました。箱根や修善寺を訪ねる旅で、とても楽しかったことを覚えています。
 母、私、娘、孫の「西遠四代」で創立100周年の時に表彰されたことも良い思い出です。

小島節子さん(高女34回梅組・昭和21年3月卒)の戦争体験

落下タンク

挿絵:小島様

 私は河合楽器の第二工場に学徒として通い、同級生の野末良子さんと二人組になって木製の落下タンクに注入口をつける仕事をしていました。注入口はエボナイトで、ビスで止めます。直径7センチぐらいでした。

防空壕

 落下タンクというのは、飛行機の燃料を入れる容器で、空になって機体から落とすため、「落下タンク」といいます。自分たちの体が入るぐらいの大きさで、大きいのと短いものの2種類を作りました。木の枠にベニヤを貼って、絹の布を貼り合わせ、塗料を塗りつけました。パテを塗って、サンドペーパーをかけて磨いて仕上げるというものでした。最後に、空気を入れて漏れがないかを確かめる検査もありました。4月30日は、午前11時頃、突然敵機来襲となりました。指定されている防空壕に逃げ込み、身を寄せ、じっとしていました。

空襲

 工場に爆弾が落ち、屋根はぺしゃんこになり、私達の入っている防空壕の入り口も半分ぐらいしか開かず、私はようやく這い出しました。工場には塗料がたくさんありましたから、それに火がついて、メラメラ燃え始めました。私は友達を引っ張り出して、足袋裸足で、つぶれた屋根の上を火のない方へと逃げました。
 途中、穴だけ掘った防空壕に飛び込んでは、爆風を逃れました。目を閉じ、耳を押さえても、赤・黄・緑の熱風が頬を突き刺すような感じだったことを、今でも思い出します。
 一緒に逃げた岩井さんは、お宅が芳川か飯田のあたりだったと思います。そこに二人で辿り着くと、ご飯とシャケをごちそうになり、わらぞうりをいただきました。そのあと、私は一人で、中野町を通り、常光町の祖父母宅に向かいました。

 祖父母の家に着いてから、「笠井の鈴木かづ子さんはおうちに帰ったかしら」と思い、自転車で鈴木さんのお宅まで行きました。すると、鈴木さんのお宅はお店の片付けをしていて、変だなと思いました。聞けば、隣保の方々がリヤカーで遺体を迎えに行ったといいます。鈴木かづ子さんが亡くなったことを知りました。私は怪我をしていたので、そのまま帰りましたが、自転車を漕ぎながら泣いて帰ったことを覚えています。
親しい友人も亡くし、本当に悲しい時代でした。

牧野和子(旧姓鈴木)さん(高女34回梅組・昭和21年3月卒)の戦争体験

 私たちは昭和19年8月に学徒動員されました。西遠3年生の8月です。同級生250名が2つに分かれ、遠州機械と河合楽器へ動員され、私は河合楽器に通いました。1,2,3,5の4班に分かれて職場に就きました。私たちの仕事は落下タンクの製造でした。
 年が明けた昭和20年、この頃から夜間の空襲が激しくなり、市内の市立高女(今の浜松市立高校)・誠心高女(今の浜松開誠館中高)が焼けました。西遠では、学校を守らねばと、約6人ずつの生徒が学校に泊まり込んで守ることになりました。
 工場の仕事が終わると、学校の家庭寮に戻り、持参した米で自炊し、夜は空襲警報が鳴れば飛び起きて、校舎へと駆け足で向かいました。本館2人、化学館と修身堂に2人、新館と裁縫館、体育館に2人という担当になっていて、廊下や教室の窓の鍵を開け放つのです。空襲でガラスが割れないようにという配慮でした。真っ暗な校舎をただ一人で動き回るのは非常に恐ろしかったのを覚えています。鍵を開け終わると、急いで防空壕に戻ります。壕の中で、持っている非常食の干し飯や大豆、ラッカセイなどを交換してボリボリ食べました。空襲警報が解除されると共に、再び校舎に戻って、戸締りをして、寮に戻ります。当番は月2回ぐらい回ってきました。
 昭和20年4月30日、朝から空襲警報が出っぱなし、但し、この頃には空襲警報が出ても避難できず工場で作業を続行することになっていました。作業をしていると、突然大きな音と地揺れがしたのは、午前10時ごろでしたでしょうか。私たちは壕へ飛び込みました。続いて爆音が聞こえたと思ったら、ひどい揺れがし、塞いでいた目を開けてみると壕の中は黒煙で真っ暗になっていました。外に出ようとしましたら、ふたが開きません。反対側の出口も開かず、このままでは私たちは死んでしまう!とみんなで力を出し、蓋を足で蹴破りました。すると、上から火のついた木材が落ちてきて、入り口でメラメラと燃え出しました。みな後ずさりしましたが、「またいででも逃げましょう」と私が真っ先にがれきをくぐって上へ出ました。
 外は工場がつぶれ落ちて、がれきの山です。塗料に火がついて、燃えていました。私たちはがれきの中をくぐって上へ上へと登り、やっとのことで工場の外壁の真上、高さ2メートルぐらいのところに出ました。見下ろすと、そこは道路です。私が先頭になって飛び降りました。道路と言っても、道幅は一間ぐらいの狭い道で、反対側は民家がぎっしり建っています。どこも戸を開け広げているので、申し訳ないけれど、私たちは履物を履いたまま、土足で畳に上がって、その家々の中を2軒、3軒と突っ切って逃げました。ある家では、畳の下から「このガキども!己の家を何と思ってる!」と怒鳴られましたが、「何言ってるの、そんなところにいたら焼け死んでしまうよ、早く逃げな」と言い返して、とにかく逃げました。
 第五工場の広場に出た時、また爆音が聞こえました。近くの防空壕のふたを開けると、同級生たちが避難していました。「早く閉めて」と言われ、天野三ツ枝さん、私、そして西尾俊子さんの順で中に入り、西尾さんがふたを閉めたその時でした。ガッと体が押しつぶされて、身動きが取れなくなりました。爆弾は私たちの壕のふたの上に落ちたそうです。 
 互いに皆が名前を呼び合って安否を確認していました。「西尾さん、大丈夫?」返事がない。何回呼んでもダメ。「西尾さん死んじゃった。」誰かがわぁーっと泣き出しました。次々に皆の名前が呼ばれました。「天野さん、大丈夫?」「大丈夫。」「和子さん大丈夫?」そう言われた時には、私は口まで土に埋まり、手も動きません。顔の前にやっと開いている小さな空気穴からは、ぽろぽろと土が落ちてきていて、鼻まで埋まりそうでした。口を開くことができないので黙っていると、「和子さんも死んでしまった」という声がしたので、これはいけない、精一杯の力で「ううん」とうなりました。「あ、生きてる!」「がんばってね」と声が聞こえました。「うん」これはどうしても家に帰って父母に話をしなくてはと思いました。

 夢を見ていました。道をとぼとぼ歩いていると、小学校の校庭で鉄棒にぶら下がって、弟がにこにこしています。向こうから馬に乗った立派な軍人さんが来ます。軍刀を腰にしたその人は、よく見ると私の兄でした。私の横をにっこり笑いながら過ぎ去っていきます。また向こうから、今度は海軍の軍人さんが教練で駆けてきました。その中に、予科練に行っている二番目の兄の顔がありました。・・・このように身内の顔が目に映るということは、私はもうだめなのだろうと思いました。
 気づくと、きれいなお花畑が広がっていて、私は抜けるような青空のもと、お花畑を歌いながら踊りながら歩いていました。ねえ楽しいね、と振り返ると、誰もいません。こんなに楽しい所なのに、みんなどうしたのだろうと思いました。
 今度は、ぽかぽか暖かい布団の中で寝ています。台所から母の声がします。「和子ちゃん、早く起きなさい。早く起きないと学校に遅れますよ」母の大きな声に「うん、分かった」と言ったとたん、「あ、気がついた!おじさん、早く掘って!」と天野さんの声がしました。
 あとで聞いたのですが、防空壕で生き埋めになった天野さんが先に掘り出され、「早く逃げなさい」と言われた時、急に怖くなって「この人を掘って」と言ってくれたのだそうです。「この人は死んでいるから」と言われても、天野さんは「いや、和子さんはさっきまで声を出していたから、生きてます」と言って、私の名前を呼び続けてくれていたのでした。
 掘り出された私は、「おじさん、一緒に逃げて」と頼みましたが、おじさんは「二人で逃げなさい」と言うので、天野さんと二人で逃げました。私はまだ呆然としていて、火の燃え盛る方へと駆け出してしまいました。「危ない!そっちに行ってはだめ!」と天野さん。二人で手をつないで歩きました。私が臓物を踏みそうになった時も天野さんがすんでのところで止めてくれました。
天野さんがリードして、私たちは逃げることができました。河輪の方の避難所に向かって逃げている途中、すでに空襲警報が解除になったらしく、沿道の人たちは片付けに忙しくしていました。爆弾で空いた穴に、ゴミを捨てていたのです。私を見た女性が「あなた、裸足でしょ、ちょっと待ちなさい」と言い、ゴミの中からわら草履を探してくれました。片方は子供の、もう片方は足の二倍もあるような藁草履でしたが、それをはかせてもらいました。人情のありがたみを知りました。

 河輪町の方向に歩き、避難所らしきお宮の境内に着きました。午後四時ごろでした。赤ちゃんを抱いたお母さんが放心状態で歩いていました。よく見ると、赤ちゃんの脚が腿から先の肉がなく、皮だけがぶらぶらとぶら下がっています。赤ちゃんはおそらく死んでいたでしょう。見ていられない光景でした。
 先生にも会わずに有玉の家に帰りました。遠州鉄道の電車は通っていましたが、着の身着のままの私は、当然ながらお金も定期券も持っていません。それでも「乗せて」と言って、乗せてもらい、家に帰ることができました。

 学年には3人「鈴木かずこ」がいました。空襲で亡くなった笠井の鈴木かづ子さんも当時電車で通っていました。だから、「電車通学の和子さんが亡くなった」というので、私が死んだと思っていた先生もいらっしゃいました。
4月30日の空襲で、私は怪我こそありませんでしたが、この日の体験を境に、それからは空襲が怖くて、身体が震えるようになりました。歯がガタガタして、本当に歯の根が合わないのです。
 いつもは空襲警報が鳴っても玄関に座っていた父でしたが、空襲を怖がる私があまりうるさく言うものだから、その日は防空壕に入ってくれました。あとで見たら、玄関に機銃の跡がありました。もし父がいつものように玄関に座っていたら…。父は「和子のおかげで助かったな」と言ってくれました。

取材:2017年10月14日