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学徒動員を語る(高女34回生)


2021年10月10日 殉難学徒の同級生で西遠高女34回卒業(松組)の4名の皆様が母校を訪れてくださいました。
 伊藤 ツヤ様:天竜区在住。この春、姪のお孫さんから戦争体験の取材を受けた。
 鈴木 たみ(旧姓平野)様:西区在住。
 川合かよ子(旧姓服部)様:中区在住。
 寺本 町子(旧姓伊奈)様:中区在住。
この4名の皆様から、動員学徒の日々の思い出を中心に空襲体験や戦時下の生活について、生活会館にて校長の大庭がうかがいました。

写真左から 鈴木様 伊藤様 寺本様 川合様

動員学徒先の工場について

大庭:今日は、戦争中、学徒動員で工場に行かれていた西遠の大先輩の皆さんにお集まりいただきました。まず、皆さんの動員先を教えてください。
伊藤:私は河合楽器寺島工場に行っていました。
寺本:私も河合楽器です。塗装部にいました。
大庭:同じ工場でも作業はそれぞれ違ったのですか?
伊藤:私は木工部って言うのかしら、翼の下に付ける落下式予備燃料タンクを作る仕事をしていました。
寺本:私は、絹の布を張ったものにパテを塗って、水ペーパーで仕上げをする仕事でした。
伊藤:補助タンクの骨組みが1.5メートルぐらいあって。その前後にベニヤ板を12枚、細い釘で打ち付けて作るんです。
川合:私と鈴木さんは遠州織機。高塚にある、今の「エンシュウ株式会社」ですね。
鈴木:機関銃の弾を作ってました。
川合:機関銃の弾はね、長さ10センチぐらいかしら、先がとがっていて、ねじで締めるんですけど、その作業が難しいのね。失敗して弾をいくつもお釈迦にして怒られました。
鈴木:ねじ切りって言うんですけど、とても大変な仕事でした。
大庭:同じクラスでも動員先が違ったわけですが、配属の工場はどうやって決まっていたんでしょう?
川合:うちから近いところに配属されるようになっていたんでしょうね。私は舞阪生まれ。弁天島駅から、汽車(今のJR東海道線)で高塚に通ってました。
鈴木:私も、舞阪駅から電車で通いました。
伊藤:私は家から三方原駅まで30分歩き、三方原駅から軽便鉄道奥山線で終点の東田町まで来て、そこからさらに歩いて寺島の工場に通っていました。

12月7日の東南海地震

川合:私たちの通っていた遠州織機は、空襲の被害はなかったけれど、1944年12月7日の東南海地震に遭って被害を受けました。
鈴木:揺れ始めたとき、地震だって分からなくて、「敵機来襲」「防空壕へ避難せよ」って言われて。空襲だという情報で、急いで全員防空壕へ避難したんですよ。
川合:必死に防空壕に避難したら、防空壕の上に、工場の建物が倒壊してきて、入り口がふさがれちゃったのね。
鈴木:防空壕の空気口の煙突みたいなところから、みんな必死に這い出しましたね。
伊藤:あの地震は怖かったわね。立っていられなくて這いました。その後、地震恐怖症になりました。

4月30日の空襲

大庭:河合楽器の工場は1945年の4月30日の空襲で大きな被害を受け、その時、動員されていた西遠の生徒も亡くなられたんですね。
寺本:4月30日の11時頃でしたね。突然、「逃げろ」って言われて、決まっていた防空壕に飛び込みました。
伊藤:当時、工場には防空壕が3か所あって、どの防空壕に誰が入るかがあらかじめ割り振られていました。
寺本:私の入った防空壕では、私の前の人と横の人が亡くなったんです。坂田米子さんという友人がそのお一人です。私自身は命は助かりましたが、木が肩にあたって動けなくなってしまい、埋まった状態だったのを、助け出してもらいました。
伊藤:私は本来入る防空壕じゃないところに入れてもらったんです。というのは、「警戒警報」の後、普通は「空襲警報」が鳴るんですが、その時は「空襲警報」より先に、近くに爆弾が落ち始めたのです。それで、大急ぎで近くの防空壕に入れてもらいました。人がいっぱいで、ようやく入口の所に入れてもらい、入り口に木製の蓋をかぶせて。そしたら、爆弾がすぐ近くに落ちて、その土が舞い上がって、私たちの防空壕の上にどさっと落ちたんです。防空壕の奥の方がつぶれちゃって、「入口の人、出て!」って言われて、慌てて外に出ると、私たちが今まで作業していた工場がぺちゃんこになっていました。塗装工場からは火が出ていました。どうやってそこから歩いたか覚えていないんですが、とにかく道だったところを歩きました。そしたら、同じクラスの宮松律子さんが私を見つけてくれました。宮松さんは指示通りの防空壕に入っていて、私の荷物を持って逃げていてくれたんです。そこで、私は初めて自分が怪我をしていることに気づきました。
大庭:防空壕に避難していた時に怪我をしたんですか?
伊藤:そうです。防空壕の入り口すぐのところにかがんでいたので、蓋の隙間から破片が飛んできて。気づいたら、もんぺの縫い目が切れていて、右足の太ももから下に何か所か破片がささっていました。私はそこから歩けなくなってしまい、宮松さんが肩を貸してくれて、何とか竜禅寺小学校まで歩いていきました。そこで三角巾を使って手当てをしてもらい、それから馬込川を渡って、集合場所に指定されていたお寺に行きました。馬込川の橋の上で、担任の池谷先生が、真っ黒い顔で私たちを呼んでくれました。
大庭:そのあとはどうされたんですか?
伊藤:三方原の同級生の鈴木隆子さんは無事で、彼女が素足で三方原まで歩いて帰り、私が怪我をして帰れない状態でいることを姉に知らせてくれたんです。姉から私の怪我を聞いた父が、リヤカーに布団を積んで、自転車で迎えに来てくれました。でもね、地元の三方原は当時無医村だったの。だから、軍医さんが下宿しているお宅に泊めてもらい、そこで軍医さんに破片をとってもらいました。しばらく松葉杖の生活でした。
寺本:私は、家も竜禅寺に近い浅田町だったので、この空襲で自宅も失いました。近くのフイルム工場が爆撃で狙われて。私の家族は深く掘った防空壕で助かりました。私はしばらく、工場の空き家にいて病院に通ったんですが、しばらくして母の実家の掛川に疎開しました。掛川では、浜松への艦砲射撃が見えて、怖かったです。

6月18日の浜松大空襲

川合:遠州織機では、「夜勤」がありました。しかし、同級生の家族の間では「女子に夜勤をさせるなんて」と反対するご家庭もあり、夜勤には加わらなかった友人もいました。
鈴木:そして、私たちが夜勤の時に、浜松への大空襲があったのね。
川合:6月18日から19日にかけての浜松大空襲の時ね。高塚の工場付近は被害はなかったけれど、高塚から、浜松の中心部が真っ赤に燃えるのを見ました。焼夷弾で燃えていました。そして、その空襲で友人のご一家が皆さん亡くなったんです。
伊藤:彼女は東田町の駅の近くだったのね。紙箱製造業を営むお家で。殉難学徒の方は卒業生名簿にお名前があるけれど、個人で亡くなった方は名簿にも残らなかったのね。お気の毒です。

西遠入学から卒業までの思い出

大庭:皆さんが入学された昭和17年というと、まだ岡本巌老校長はご存命でいらしたのですね?
伊藤:そうです。巌先生はよく校内を散歩されているのをお見掛けしました。その6月に亡くなられて、ご葬儀の時に、校長先生はじめお子様まで白装束で送られた姿を、初めて見ました。ご立派なご葬儀でした。

伊藤さん(左)の持参したアルバムに見入る川合さん、鈴木さん、寺本さん

岡本巌先生のご葬儀の様子が収められたアルバム(伊藤様ご提供)

大庭:その頃の学校はどうでしたか?
川合:1年生の時はまだ英語の授業があったわね。
伊藤:2年生で、英語がなくなって、3年生からは勉強なんてろくになかったわね。毎日、防空演習とか、体育はなぎなたの練習だったし。体操の女性の先生、怖かったわねー。
一同:(うなづく)
伊藤:竹山先生という体育の先生がいらしたけれど、結婚もされていて、兵隊に行って戦死されたと聞きました。
大庭:先生方のなかにも、戦争で命を落とされた方がいらしたんですね。
川合:背の高い先生でしたね。
伊藤:私、竹山先生に「号令の掛け方がうまい」と褒められたのよ。竹山先生、かっこよかったわね。

ご家族のこと

大庭:伊藤さんが天竜市の「平和への思い」作文集に書かれた文章を読むと、二番目のお兄様がシベリアに抑留されていたんですね。
伊藤:そうです。2番目の兄は、磐田農校を卒業と同時に満州にわたりました。当時は次男・三男は満州へ、という時代でした。兄は満州で結婚したんですが、昭和19年に兵役につき、終戦と同時にシベリアに送られ、昭和23年、10年ぶりにようやく日本へ帰国できました。終戦直後、満州にいた彼の奥さんは、身を守るために、頭を坊主にして男のようにして満州から帰国しましたが、途中お子さんを病気で亡くし、お骨を抱いての帰国でした。兄は、今年99歳ですが、秋田で元気にしています。
寺本:私の兄は予科練に行きました。飛行機乗りで、特攻隊の一人になるはずでしたが、怪我をして出撃することができず、足を引きずって帰ってきました。
伊藤:私の一番上の兄は、三度負傷しましたが、無事復員しました。3番目の兄は戦死しました。
川合:こうして私たちの戦争体験を聞いてもらってて、残してもらえるのはありがたいです。形にしておかないと、忘れられてしまいますからね。
大庭:そういっていただけて嬉しいです。生徒たちにも皆さんの体験を読んで戦争中に起きたことを知ってもらえるようにしたいと思います。皆さん、今日は貴重な体験をお話しくださって、ありがとうございました。

90歳を超えられた皆様は、とてもお元気で、私の質問に丁寧に答えてくださいました。
そんな皆様が、真っ先に学園の殉難学徒慰霊碑「愛の灯」像に向かわれ、像の前で手を合わせられたお姿が深く心に残りました。皆様やそのお友達の体験された戦争体験を、しっかりと次世代に伝え、平和を継承していかなくてはと、思いを新たに致しました。4人の皆様、ご協力ありがとうございました。皆様のご長寿・ご健康を心よりお祈りしています。