ほとばしるエネルギーと感動とをもって、
柔軟で純粋な心一筋に打ち込んで
積極的に活動するところに
躍動がある
古い「友情」(学校誌)を読んでいた時、この言葉に出会いました。
昭和50年9月発行の「友情」116号の巻頭言「躍動」にあった言葉です。
書かれたのは、その前年昭和49年から西遠の校長を務められた佐藤盛一先生です。
学生時代ラグビー選手であった佐藤先生は、昭和50年当時の日本ラグビー界のエピソードを「躍動」の中で紹介しておられます。
先般世界の最強豪といわれるニュージーランドのカンタベリー大学とイギリスの名門ケンブリッジ大学のラグビーチームが時を同じくして久しぶりに来日した。
日本のラグビーの力も年々国際的にもその評価は高められて来ているのであるが、試合の結果は、日本代表チームはわれわれの期待に反して連戦連敗で熱心なラグビーファンを切歯扼腕(せっしやくわん)させたのである。
前回イングランド代表チームが来日した際に、イングランドラグビー協会会長ケンプ博士のメッセージの中に、次のような言葉があった。「われわれラガーメンは、見せるためにラグビーをやっているのでもなければ、自己の名声や地位を挙げるためにやっているのでもない。ただほとばしるエネルギーと感動をこのゲームの中にコントロールすることに歓喜と誇りを感じてプレーしているのである。」と。このようなプレーを真剣に行うところにこそラガーメンの躍動があると思う。
カンタベリー大学の五戦五勝のあと日本における最後の試合にあたって、全日本チームの岡監督は、ケンプ博士の言葉を引用して、「ただほとばしるエネルギーと感動をこのゲームに打ち込むだけという気持ちでラグビーはやるべきだと思う。しかし代表として選ばれた栄誉と誇りには、同時に好むと好まざるとにかかわらず自ら責任と言うものがつきまとって来る。日本のラグビーに明日への希望をつながなければならない。さあ、頑張ろう。」と激励したという。
その結果最後の試合は完勝に終った。
選手たちは見事にその責任を果たし、素晴らしいゲームを展開したという。
そして、その一週間後のケンブリッジ大学のチームとの試合でも日本のラグビー史上初めての勝利を得たというのである。
昭和50年ごろには、ラグビーファンの心を熱くさせる、こんなエピソードがあったのですね。
日本ラグビーの歴史の中で、大きなターニングポイントとなる出来事だったのではないでしょうか。
今、日本ラグビーは、まさに世界から注目される存在となり、日本でも熱い応援が始まっています。
そんな時だからこそ、この巻頭言を読みながら、心が熱くなっていくのを感じました。
そして、このエピソードを紹介した佐藤先生は、次のようにその文章をまとめていらっしゃいます。
この試合に敢闘した選手たちの活躍こそ、日本のラガーとしての心技体の結集した純粋なラガー魂の躍動があったことは間違いない。
ほとばしるエネルギーと感動とをもって、柔軟で純粋な心一筋に打ち込んで積極的に活動するところに躍動があると思う。
躍動とはこうした生き生きとした心技体の充実した行動の中に生まれるものであると思う。
佐藤先生が校長職に就かれたのは昭和49年。
私も生徒の時でした。
私達の学年は、佐藤校長先生から卒業証書をいただいた最後の学年です。
西遠に来られる前、佐藤先生は、長く浜松工業高校の校長先生を務めていらっしゃいました。
浜工を中島から初生へ移転させるという大事業を敢行された校長先生です。
このほど、浜松工業高校さんは、創立100周年の節目を迎えられました。
その100周年誌の中に、かなりのページを割いて書かれている佐藤先生の偉業を読みながら、
当時、私たち西遠生の目に寡黙そうで温厚そのものに映っていた佐藤先生の内面には、
ラガーマンとしてのほとばしるエネルギーや、誇り、責任感、そして、心一筋に打ち込む心意気があったことを、改めて感じました。
先生の心の中のラガー魂の「躍動」こそが、「学校移転」という大事業を成し遂げる原動力だったのではないでしょうか。
写真左上が浜工100周年誌、右上が西遠100周年誌。
手前が、古い「友情」のファイルです。
佐藤先生は、西遠が80周年を迎えた昭和61年の初夏、逝去されました。
当時、西遠の教員となり、「友情」顧問を務めていた私は、
佐藤先生の追悼ページを組むことになり、寂しさを感じたことを覚えています。
「友情」160号に、そのページが残っています。
浜工、西遠、二つの100周年誌にその名を残す佐藤盛一先生。
浜工100周年誌を拝読しながら、西遠での学生時代、佐藤先生と出会うことのできた幸運を、かみしめた次第です。