火星が大接近した今夜、
私も夜空を眺めました。
正直、帰宅した時には火星のことなどすっかり忘れていたのですが、
母に「見た?ほら、あれ!…金星!」
と言われ、「いや、それ言うなら、火星でしょー!」と大笑い。
でも、おかげで火星と対面することができました。
そして、カメラでも撮ってみました。
ボケボケですが、赤い星が撮れましたよ。
(今村先生に、こんなぼけ写真を載せるなんて、と叱られそうですが…笑)。
お月さまを撮るのと同じように空にカメラを向けても、普通星は写りませんが、
さすがにでっかくなった火星は、デジカメの腕のない私の元にもちゃんと姿を現してくれるんですね。
ボケているけど、嬉しい一枚。
さて、火星が出ていると、必ず私は高村光太郎の「火星が出てゐる」という詩を思い出します。
詩の題でもあり、詩中に何度も「火星が出てゐる」という1行が登場します。
ふと、この詩は何年に書かれたんだろう?もしかして、この頃も火星が大接近していたんだろうか?と疑問に思い、
「火星大接近」でインターネット検索をしてみました。
すると、どうやら1924年がそうだったようです。
また、1926年に京都大学の中村要という方が火星のスケッチを描いたそうで、朝のNHKのニュースで、そのスケッチが見つかったと紹介されていました。
1924,1926、さて、「火星が出てゐる」は、何年の作品でしょう?
久々に古い本を出してみました。
大学時代に使っていた、「教科書」的な一冊。
この中に、「火星が出ている」も掲載されていますし、
巻末に光太郎の年譜もあります。
年譜を調べてみました。
1924年、「火星が出てゐる」は見当たりません。
1925,1926もなし。
でも、・・・・・・ありました!
1927年の1月に「生活者」という雑誌で発表したと記されています。
ちょっとの誤差はあるけれど、大変近い年に発表された詩なのだと分かって、
推理小説で犯人が当たったみたいに、嬉しくなったオオバでした。
光太郎にとっての1920年代は、とても幸せで充実した時です。
智恵子という最大の理解者を得て、
俗世間に染まらず、孤高のうちに生きていこうという気概にあふれる詩や、
愛する妻との生活を歌いあげた詩、
たとえば、
「雨にうたるるカテドラル」「樹下の二人」「十大弟子」などが、
この時期に作られています。
「火星が出てゐる」も、光太郎独特の少し乱暴な、語気の荒い詩になっており、
武骨さ・厳しさが感じられます。
これに対して、1930年代の光太郎には、悲劇が待っています。
妻智恵子の精神状態が悪くなり、遂には自殺未遂。
一命は取り留めたものの、すっかり精神を病んだ妻の看病に、光太郎は明け暮れます。
詩にも悲壮感が漂ってきます。
「火星が出てゐる」を久しぶりに読み返し、
大学の講義や、卒論に頭を抱えていた日々を、思い出しました。
火星大接近のおかげで広げた昔の本。
火星にお礼を言わなくてはいけないですね!