今日12月7日は何があった日かご存じですか? 今から76年前の昭和19年12月7日、マグニチュード7.9の東南海地震が発生しました。昼下がりの午後1時36分のことでした。
私は幼いころから、この大きな地震のことを母から聞いて育ちました。小学校低学年だった母は、学校が終わり、遊びに行った先の道端でこの地震に遭いました。歩けないほどの揺れで、ためてあった水がたっぷんたっぷんと揺れ動いたそうです。大人は自分の身を守るので精一杯、小学生の子どもたちを見ても誰も助けの手を差し出してくれなかったので、とにかく家を目指して必死に帰ったと聞いています。この春、母が地震に遭った場所、そこから歩いて帰った道を、車で二人たどってみました。グランドホテル浜松のすぐ近く、坂を上って家に帰った時の心細さを、母はつい昨日のことのように話してくれました。
父は東海道線の汽車に乗っていて地震に遭い、愛知県から浜松まで皆で歩いて帰ったそうです。海軍兵学校の入学試験の帰路のことでした。
ロング・ディスタンス・ウォークの時に中野町で「まっし蔵」を訪ねた生徒の皆さんは、この地震で倒壊した建物の写真を見ましたね。「 特に震災直後の写真は浜松にも大きな打撃を受けてしまった事を改めて感じ、とても印象深く残っています。 (高校1年)」という感想もありました。私も初めてその写真を見た時はショックでした。
この地震は東海地方に大きな被害をもたらしましたが、戦争中のことだったために、伏せられてしまいました。その時の怖さ、そして、その後激しくなった空襲のことを、西遠の大先輩の皆さんが本にまとめています。「戦争に翻弄された私たちの子ども時代」という本です。2011年の東日本大震災の後、「あんなに怖かったのに報道も救済もなく、歴史の中に埋もれてしまった東南海地震のことを書こう!」と同級生たちが話し、それぞれが体験記を書いたのです。
本をまとめられた斎藤よう様と下山當子様は、私がインタビューをしたときに、東南海地震のことをこんな風に話されています。
齋藤 私は国民学校4年生で、女子のクラスでは若い教生の男の先生とおしゃべりをしていたの。突然、大きな音がして。教室が吹き飛ばされるかと思いました。地震の知識など全くなかったので、何事が起ったのかと思いましたよ。机の下で目と耳を押さえていた時間を考えると、ずいぶん長いこと揺れていました。学校から家まで一時間以上かかって帰る途中、坂の下で住宅がつぶれていて、つぶれた二階建ての家の中に、挟まれた手が見えたんです。もう怖くなって足早に通り過ぎましたね。
下山 私はお習字の時間でした。突然の激しい揺れで、2階の教室は大混乱。みんなが廊下に飛び出して、私も慌てて後を追いました。でも、階段は高等小学校の男の人たち(今の中1,2年生)が怒涛のように降りていて。4年生の私たちにしてみたら大人みたいな人たちが一斉に階段を下りていくから、とても中に入っていけませんでした。二階の廊下は、防火水槽の水がザブンザブンこぼれて水浸しで、滑ったり転んだりして大変でした。うちに帰ったら、障子は弓なりになって破れているし、柱時計が墜落しているし、土壁が落ちて、赤土の埃だらけ。家の柱の土台がずれているところを親に見せられて、あと1センチずれてたら家がつぶれていたと聞いて、怖くなりました。
西遠女子学園公式サイト「戦後70年 西遠の記憶」の「戦争体験文集を発行して」より
お二人に限らず、西遠の公式サイト「戦後70年 西遠の記憶」でお話を伺った卒業生の方々は、皆さんこの東南海地震の記憶をお話してくださいました。
1944年の東南海地震は、戦争と共に、しっかり継承していかなくてはならない東海地方の歴史です。西遠では、明日、突然の発災を想定して、「第2回防災訓練」を行います。防災の意識を高める大切な機会にしたいと思います。