終戦の日を前に

水害に見舞われている皆様に心よりお見舞い申し上げます。どうぞ皆様、気象情報・災害情報に敏感に反応し、降り続く雨の災害に備えてください。

今日は8月14日。例年、地元では「中野町煙火大会」が行われている夜です。花火を見に出かける天竜川の河川敷は、今どうなっているだろう。とても心配です。

明日8月15日は終戦の日です。生徒の皆さんに、8月3回のサイレンのお話をしましたが、明日の正午、3度目のサイレンが鳴ります。76年前のこの日を、人生の先輩たちはどういう思いで迎えたのか、今までインタビューした西遠の先輩方や、自分の家族の話を思い起こしています。

「戦争体験文集を発行して」で取材したお二人の卒業生  斎藤よう様、下山當子(まさこ)様 は、終戦の日のことを、次のように語ってくださいました。

下山 終戦の日には本当にびっくりしたわよ。どこの国とも戦争してないの?って。生まれてから一度も戦争のない時代に遭ったことないから。

齋藤 そうね、私も それが一番。ホントに飛行機飛ばないの?って。いっつも飛行機の音がその辺でしていたから。ぐわーんぐわーんって。

下山 私は喜びというよりぽかんとした感じ。次の日に私は防空頭巾を持って登校しちゃったもの。

齋藤 私は「え、そんな世の中があるのか」って感じたわ。

            (西遠公式サイト「 戦争体験文集を発行して 」より

私の母は終戦時、小学3年生でした。お兄さんが「日本が負けたなんて嘘だよねえ!」と泣きながら家に帰ってきたことを今も話してくれます。軍国少年たちには信じたくない、受け入れがたいニュースだったのだと思います。一方、末っ子の母は「今日から電気つけていいの?暗くしなくていいの?」と嬉しくて何度もお母さんに聞いたそうです。それまでの日々と全く違う日常が始まることを受け止めるには、きっと時間がかかったことでしょう。価値観も180度変わった76年前です。

卒業生の伊藤かね子さんは、終戦の日にこう感じたそうです。

大人が「これで戦争が終わったんだ」と言って、噂がパーッと広がりましたね。それを聞いた時、「それでも同じだなあ」と思いました。というのも、飯田小が全焼してからは、何年生はどこ、何年生は稲荷山、というように分けられて、6年生の私は鶴見の分教場まで毎日通学していたので、戦争が終わっても、そこまで毎日通わなくちゃいけない、大変だなあと。それに、食べるものもなかったですしね。 家の中では、金目のもの・真鍮の火鉢や火箸、茶卓に至るまで供出して、家の中ががらんどうのようになって、戦後、気がつけば何もない生活になっていたのです。戦争が終わったから平和になったというより、その後の生活の苦労が何年か続きました。 (西遠公式サイト「戦争体験を語る」より)

戦争が終わっても、生活が一気に楽になることなどありませんでした。長く辛い日々は、終戦後も続いたのです。

今年、私は一冊の本に出会いました。

池田理代子さんの第一歌集「寂しき骨」です。6月24日の「小さな白板」でも、彼女の短歌を紹介しました。

彼女がこの歌集を出そうと考えた一つの理由は、お父様にありました。歌集冒頭に「父と戦争」という文章があります。兵士として南方に行き、そして捕虜になっても生きて日本に帰ってきたお父様のことをテーマにした短歌が、文章のあとに続いて掲載されています。

   南方の戦を生きて父は還る 命を我につながんがため

   手榴弾一個ばかりの命にて 語れぬ日々を兵士は生きたり

昨日の毎日新聞にも「南方で戦った父に思い巡らせ 漫画家、声楽家 池田理代子さん 負の歴史隠さず正視を」という池田理代子さんのインタビューがありました。有料ウェブ版なので、読めない方もいらっしゃるかと思いますが、こちらをクリックしてみてください。記事の中で、池田さんは、若い世代に向けて、「76年前にどういうことがあったのか、若い人たちに日本の歴史に興味を持ってほしい。この社会についても考えてほしい。」と訴えています。76年前と現在とは断絶されているのではなく、「地続き」なのだということを、私もまた強く思います。

明日の終戦の日、76年前のことを決して「昔のこと」と考えず、今に続いているのだと噛みしめながら、黙祷したいと思います。