いつも写真で登場する岡本記念講堂の舞台。先週土曜には、高校3年生の学年集会もこの講堂で行われました。
講堂の舞台は、こうして集会や朝会、そして数々の式典に欠かせない施設です。そして、舞台で演奏したり作品を披露したりする部活生にとっては、晴れのステージでもあります。
その講堂の舞台を彩り、行事を演出するピンクや紺の引幕が、このたび新しくなりました。
この幕地をご寄贈くださったのは、卒業生の故 鈴木様です。いつも西遠を大事に思ってくださっていた鈴木様のご遺志で、この幕地や照明の調整卓、正門・西門の鉄扉の補修と塗装など、西遠に学ぶ後輩たちのために多額のご寄付を賜りました。 豊子様のご冥福をお祈り致しますと共に、豊子様の母校を想うお気持ちの深さ、それを引き継いでくださいましたご主人様のご厚情に、心より感謝申し上げます。
これから、講堂では、大先輩に見守られながら、四季の行事や節目節目の式典が行われます。大先輩のお心のこもった贈り物を、私たち後輩は感謝の心を忘れず大切に使わせていただきます。鈴木様、ありがとうございました。どうぞ母校をいつまでもお見守りください。
鈴木様にとって、西遠の校歌は「家事の合間に口ずさむ歌」でした。それは、亡き岡本富郎先生が校歌に込めた思いそのものでした。
晩春の夕、二人は天竜の川畔を、そぞろ歩きをしていた時のことであった。私が、かねがね念願の寮歌の作詞を、依頼していたことを思いだしたのだろうか、それはいわゆる校歌的型式のものでなく、卒業後、家庭の台所で立働きながらでも、数名の友が集ったときでも、また孤独の寂しさにたえかねた折でも、若き日を偲び自然と口ずさみ、合唱できるような叙情的な詩型を望んでいたことを、安部(忠三)君は忘れていなかったのだろう。私たち二人は語る言葉もなく、月の光が、しらじらと天竜の川面にきらめくのを眺めながら、堤防に腰をかけていた。その時である。安部君に詩情が湧いたのか、土堤の草原に横ばいながら紙片にさらさらと、寮歌の粗稿をしたため、やがて帰宅後、その夜、遅くまで、推敲に推敲を重ねて、一夜で書き上げたのが、現在の学園の校歌である。それは、若い詩人らしい感傷的な美しい言葉であり、したしみやすい詩であった。私は深い感動にうたれ、そしてその友情に感謝した。私はこの親友の友情をとこしえに残したいと思い、はじめは寮歌として作成したのを、私が昭和七年、学園の校長に就任した時から、校歌として採用することにした。 ( 岡本富郎著『黄金の鋲』より「友情の人」抜粋 )
ご主人様より、奥様が夕げの片づけなどの時に校歌を口ずさんでいらしたことを伺って、「黄金の鋲」に刻まれた富郎先生のこの文章を思い出し、富郎先生の思いをしっかりと受け継ぎ、実践されていた奥様のご生涯を想いました。
鈴木様、奥様のご遺志を学園につなげてくださいまして、誠にありがとうございました。ご長寿とご多幸を心よりお祈り申し上げます。