西遠女子学園の公式サイトには、「戦後70年-西遠の記憶」というコーナーがあります。この度、このコーナーに新しいインタビュー記事が加わりました。
「学徒動員を語る(高女34回生)」と題された記事は、昨年の秋休み、母校にお集まりくださった4名の卒業生の皆様へのインタビューをまとめたものです。太平洋戦争中、動員学徒として工場に通い、1945年4月30日の爆撃でご友人を亡くされた同期の皆さんです。
工場での日々の作業のお話や、1944年12月の東南海地震のご体験、そして工場に爆撃があった1945年4月30日のおつらいご記憶を伺うことができました。その日のブログは、こちらです。
ホームページから一部を抜粋します。4月30日の空襲のくだりです。
大庭:防空壕に避難していた時に怪我をしたんですか?
伊藤:そうです。防空壕の入り口すぐのところにかがんでいたので、蓋の隙間から破片が飛んできて。気づいたら、もんぺの縫い目が切れていて、右足の太ももから下に何か所か破片がささっていました。私はそこから歩けなくなってしまい、宮松さんが肩を貸してくれて、何とか竜禅寺小学校まで歩いていきました。そこで三角巾を使って手当てをしてもらい、それから馬込川を渡って、集合場所に指定されていたお寺に行きました。馬込川の橋の上で、担任の池谷先生が、真っ黒い顔で私たちを呼んでくれました。
大庭:そのあとはどうされたんですか?
伊藤:三方原の同級生の鈴木隆子さんは無事で、彼女が素足で三方原まで歩いて帰り、私が怪我をして帰れない状態でいることを姉に知らせてくれたんです。姉から私の怪我を聞いた父が、リヤカーに布団を積んで、自転車で迎えに来てくれました。でもね、地元の三方原は当時無医村だったの。だから、軍医さんが下宿しているお宅に泊めてもらい、そこで軍医さんに破片をとってもらいました。しばらく松葉杖の生活でした。
寺本:私は、家も竜禅寺に近い浅田町だったので、この空襲で自宅も失いました。近くのフイルム工場が爆撃で狙われて。私の家族は深く掘った防空壕で助かりました。私はしばらく、工場の空き家にいて病院に通ったんですが、しばらくして母の実家の掛川に疎開しました。掛川では、浜松への艦砲射撃が見えて、怖かったです。
伊藤様、寺本様、川合様、鈴木様、母校での取材に快くご協力くださいまして、ほんとうにありがとうございました。ご健康を心よりお祈り申し上げます。
若い世代のために、と戦争のご体験をお話してくださる卒業生の皆様に、改めまして、心から御礼申し上げます。ぜひ皆様も西遠公式サイトで「戦後70年―西遠の記憶」をお読みください。平和について、命の大切さについて、ぜひご家族皆さんでお考えいただきたいと思います。