東日本大震災から11年がたちました。今日、サイレンの音に合わせ、校長室で黙祷をしました。
11年という時間は、決して短くない年月です。しかし、悲しみはいつまでも癒えません。建物も、街も、心も、復興が完了したなどととても言えない状態だと思います。一方で、防災意識が薄れたり、津波を心配する優先順位が下がってしまったりして、11年前の教訓を私たちは未来の災害に生かせるのか、という問題もあります。
西遠の教員として、2011年3月11日にこの学園で起こったことを伝えるのは、自分の大事な任務だと思っています。少し長くなりますが、11年前の今日のことを綴ります。
2011年3月11日は今日と同じ金曜日でした。
中学生は全員が岡本記念講堂にいました。音楽コンクールの本番の最中だったのです。私は中3の学年主任として、客席の後ろの方に座っていました。舞台では、3年生の最初のクラス 藤組が「海と星とお地蔵さんと~夏~」を歌い始めていました。ゆっくりとした揺れは、まるでめまいか船酔いのようにも感じられ、すぐに地震だとはわかりませんでした。(あれ?おかしい!地震…?)地震だと認識してからも、揺れはすぐ収まるだろうから心を落ち着けて合唱を聞かなくちゃ、と思いましたが、あまりに揺れが長く、客席も徐々にざわつき始めました。合唱が止められ、舞台から避難する藤組の生徒たちは動揺していました。彼女たちは異変を感じながらも気丈に歌っていたのです。悲鳴こそ上がりませんでしたがおびえ切ってしまった中学生たちに、当時の岡本肇校長先生が呼びかけたのです。「半年前にこの講堂の耐震工事をしておいて良かったなあ。ここは安全。大丈夫だよ。」と。校長先生の言葉で生徒たちや客席の保護者の方々の心がどんなに落ち着いたことでしょう。しばらくの休憩時間を設けてから3年生の発表を再開させ、3年藤組は最後にもう一回歌うことになりました。
余震が来たのは、3年雪組が舞台に上がった時でした。コンクールは再び中断しました。短い中断を経て、雪組が歌い出したのは「木琴」という曲でした。
♪ 妹よ 妹よ 今夜は雨が降っていて お前の木琴がきけない ♪
戦争の炎の中で死んでしまった妹を悼むその歌が、地震の直後の落ち着かなかった心にずしんと響き、涙が止まりませんでした。でも、その時、東北を巨大な津波が襲っていたなんて、講堂にいた私たちはだれ一人知りませんでした。
地震の影響でJR東海道本線が止まっている、と聞かされたのは、閉会式の直前でした。そこで、閉会式の後、保護者の方々に客席に残ってもらい、事情を説明し、お願いしました。「東海道線が止まっていて、帰れない生徒が多数出そうです。すぐに終礼を終わらせますから、お子さんと近くの生徒を乗せて帰ってもらえないでしょうか。JR利用の生徒は学校に待機し、ご家族の迎えを待つことになります。」
教室では、音楽コンクールの直後、喜びも悲しみもいっしょくたになっている生徒たちに、地震が大きかったこと、JRが止まっていることなどを説明し、生徒を落ち着かせました。終礼後、先生方は皆、南グラウンドや西グラウンドに散り、送迎の保護者の対応にあたりました。寒い日でした。私は西グラウンドに立ちながら、体が冷え切っていくのを感じました。トランシーバーが通じない、お迎えにいらした保護者の方と生徒とのマッチングができない、部活ごとに対応が違う…いろいろなトラブルがありました。教員室に戻ったのは、すっかり暗くなってからでした。熱いお茶にほっとしたのを覚えています。
午後8時ごろでしょうか、最後の生徒のお迎えが来て、私は帰りの車に乗り込みました。そして、車内のテレビで初めて津波の映像を見たのでした。知らないうちに、こんなに恐ろしいことが起こっていたのだと知り、震えました。
翌日からすべてが一変しました。イベントが次々中止となり、テレビの番組も地震関連のものばかりになりました。だいぶ後になって気づいたのですが、11日はBSで14時から「篤姫」の最終回を放映しており、私はそれを録画していました。45分で終わる大河ドラマですが、最終回だったのでドラマはまだ続いていました。録画したドラマの画面が 午後2時46分に「緊急地震速報」の青い色で覆われ、やがて、ドラマが中断してこわばった表情のアナウンサーが映し出されるまでを、私は録画で確認しました。自分はあの日あの時講堂にいて揺れに遭ったけれど、こうしてテレビを見ていた人もいただろうな、とそれぞれの場所で被災した人がいるのだと(当たり前ですが)思い知らされました。
誰にでも3月11日の体験があります。東京の大学に行っていた卒業生の中には、交通が遮断され、家に帰れなかった人もたくさんいたと聞いています。友舘と会う約束をして東京にいたけれど、会えなかったと振り返る友人もいました。23区内に住む幼なじみは、旦那様も娘さんもその日は帰れなかったと話していました。その怖さや辛さ、不安を決して風化させてはなりません。私たちなりに若い世代に話していくことがとても大事なのだと思います。
紫陽花が芽吹いていました。命の息吹を感じさせる力強い緑色に励まされる思いがします。今日の浜松は4月並みの暖かさだということでした。今日とは大違いの寒さだった2011年3月11日。あの日、西グラウンドで送迎車の対応をしていた時の寒さを、私は忘れてはいけないなあと思います。
3・11を忘れない――今日改めて心に誓いました。今もなお、震災後の心の傷を抱いている方々を想い、復興の途上にある東北の応援をずっと続けていきたいと思います。そして、防災意識もしっかりと持ち、生活していきたいと思います。
今日、この長いブログをお読みくださった皆さんが、このブログをきっかけに東日本大震災の体験を若い世代に伝えてくださることを願います。浜松にいた私の体験は決して悲惨な体験ではありません。それでも「あの日あの時」を伝えることができます。私のこの文章より大事な体験談がたくさん埋もれてしまっていると思います。どうぞ、近くにいるどなたかにお話しください。そういう時間と場面がとても大事なのだと思います。