ノートルダム ド パリ

パリのノートルダム大聖堂の火事のニュースは、大変衝撃的でした。
世界中の誰もが宗教を超えて、衝撃と悲しみを持って受け止めたのではないでしょうか。
私は、かつてフランス留学中の娘を訪ね、2012年の新年をパリで迎えました。
そして、2012年1月1日、パリの中心 このノートルダム大聖堂を訪れました。
世界各地から集っているであろう観光客の人の群れの中で、荘厳な鐘の音をじっと聞いたのでした。
初めて見るノートルダムの正面は、様々な写真集で見る、堂々とした佇まいでした。

ぐるりと大聖堂の横の道を行くと、反対側には全く違う風貌の大聖堂がありました。
おもて側の印象とは正反対、複雑な入り組んだ造りは全く予想外で、衝撃を受けました。
その時、どこか巨大な怪物を彷彿とさせるその「後ろ姿」に驚き、世界の様々な魔物を建物に封じ込める力をこの建物は持っているのだろうかとも思いました。
教会の造りに全く無知な私の感想ですが、そのくらいノートルダムの後ろ姿はインパクトのあるものでした。

今回、その部分が焼け落ちてしまったのです。
そこを一度訪ねただけの観光客の私でさえこんなにショックなのですから、キリスト教を信仰する人々、朝な夕なにノートルダムを見つめてきたパリの人々は、どんなに深い悲しみや喪失感を味わっていることでしょう。
言葉もありません。
高村光太郎の詩に、「雨にうたるるカテドラル」という詩があります。
 おう又吹きつのるあめかぜ、
 外套の襟を立てて横しぶきのこの雨にぬれながら、
 あなたを見上げてゐるのはわたくしです。
 毎日一度はきっとここへ来るわたくしです。
 あの日本人です。
とはじまるこの長い詩の「あなた」とは、ノートルダム寺院のことです。
 ノオトルダム ド パリのカテドラル、
 あなたを見上げたいばかりにぬれて来ました、
 あなたにさはりたいばかりに、
 あなたの石のはだに人しれず接吻したいばかりに。
この詩には、エスメラルダやクワジモト(カジモト)の名前も登場します。
「ノートルダムの鐘」の登場人物たちです。
ユーゴーの「ノートルダム ド パリ」を彼もまた読んでいたのでしょう。
たった一人で日本から留学し、芸術の都パリで孤独と闘っていた青年光太郎が、吹きつのる雨風の中で大聖堂を見上げている姿を私は想像します。
この詩のことをすっかり忘れていたのに、2012年1月1日にノートルダム大聖堂の前に立った時、この詩の冒頭の一節をふっと思い出しました。
雨なんか降っていなかったのに、光太郎がここにどんな気持ちですがったのだろう、と思いを馳せました。
そしてまた、今、ノートルダムの火災という悲しいニュースを目にし、この詩を再び思い出しました。
 おう何といふあめかぜの集中。
 ミサの日のオルグのとどろきを其処に聞きます。 
 あのほそく高い尖塔の先の鶏はどうしてゐるでせう。
尖塔の鶏は昨日無事発見されましたね。
絶望の中の一筋の尊い希望の象徴のようにも思われます。
自分の奥深くに沈殿していたこの長い長い詩(7ページにもわたります)を、今日はもう一度読み味わって、ノートルダムの再建を心から祈ります。