昨日の殉難学徒慰霊式は、今日の新聞各紙にも紹介していただきました。
このうち、中日新聞さんの記事は こちら から見られますので、どうぞお読みください。
毎回思いますが、新聞記者の皆さんは、短い時間の中でその式の深いところまで書いてくださり、頭が下がります。
記事を読んで、たくさんの方々に、平和への強い思いが伝わりますように。
校長室には、今、素敵な花が飾られています。
これも慰霊式の名残です。
慰霊式の舞台を飾ったたくさんの花たちは、式の後、生徒に配られたり、校内各所に飾られたりするのです。
校長室にも、おすそ分けをいただきました。
花を見て心和み、花の香に癒されます。
花もまた平和の象徴です。
「花はどこへ行った(Where have all the flowers gone?)」という反戦歌もありますね。
カタリナ・ビットというフィギュアスケーターが、戦火にさらされたサラエボを想い、この曲を冬季五輪で踊ったことを思い出します。
今日は、沖縄返還の日。
花のある幸せを、心に刻みたいものです。
昨日は、卒業生が姉妹で母校を訪ねてくれました。
オオバ含む先生数名、妹さんの大学の研究取材に協力させていただきました!
姉妹一緒に訪ねてくれるのも嬉しいですね。
ところで、今日は岩手県花巻市で「高村祭」が行われたはず。
今日は、詩人の高村光太郎が東京から花巻に疎開した日なのです。
昭和20年5月15日でした。
地元では、光太郎の死後、この日を「高村祭」として、毎年式典を行っています。
戦争は、詩人にも暗い影を落としました。
光太郎は、愛する妻の智恵子を失った後、戦争へと突き進む日本で、戦争を賛美する詩を書きました。
やがて、東京のアトリエが焼け、彼は宮澤賢治の家族を頼って、花巻へと疎開します。
戦後、戦争責任を追及された光太郎は、東京には戻らず、雪深い花巻の小さな山荘で、7年間を過ごしました。
自身の生き方を問い、世間と距離を置いた光太郎に、村人たちは「光太郎先生、光太郎先生」と本当に優しく接し、その死後もこうして光太郎を偲ぶ式を続けているのです。
光太郎を卒論で研究した私は、大学4年の5月初旬に花巻の高村山荘を訪ねましたが、偶然出会ったご老人が「光太郎先生はね」と目を細めて話す姿に、この地での光太郎への尊敬と愛を感じたのを、今も覚えています。
人の心の温かさ、他者の尊重、そして愛。
平和を貫いてゆくために最も必要なものではないでしょうか。