見ました、ブラタモリ

1月25日夜に放送されたNHK「ブラタモリ」は、
「#153 浜松 ~なぜ浜松が楽器の町になった♪~」?
皆様、ご覧になりましたか?
実は、オオバ、このブログで宣伝していたにもかかわらず、自分が録画予約を忘れるという大失態を犯しまして、25日夜帰宅して「ぎゃああああ」と絶望の声をあげたのでした。
急いでNHKのHPにて再放送日時を確認したら、夜中に全豪オープンやってるので「再放送予定はない」という非情な現実!
皆さんに宣伝したのに!
西遠が一瞬映るのに!
自分が一番見たかったのに、!
2月1日2時間目には浜松市長の鈴木康友さんが西遠にいらして講演会があるのに!
なのに、なのに、見てないなんて―――!!
こういう時は、腹をくくるのが早いです。
覚悟を決めて、オンデマンドの入会手続きを取りました。
さあ、登録したぞ、すぐ見よう!
と思ったら、まだ#153は配信されてない!
一日千秋の思いで二晩待ちまして、
昨夜、ようやく配信が始まったばかりの「ブラタモリ #153浜松」を視聴できたのでありました。
見てよかったです!
家康に始まり、河岸段丘に暴れ天竜、綿織物に豊富な木材、からっ風!
浜松が「楽器の町・音楽の町」と言われるに至った経緯をタモリさんと共に学びながら、その一歩一歩の中に自分自身の生活もあったんだなあと心から感嘆した次第です。
まず、西遠がいつ出たか!?ですが、これは、冒頭でタモリさんたちが駅の構内でピアノに出会い、林田アナがピアノを弾いた、すぐ後のシーン。
キタラ(駅の北口前)にて演奏をしていた夏服乙女たちが西遠オーケストラ部でした。
指揮はもちろん村木先生。
遠景だけの、ホントに一瞬でした(笑)。
でも、西遠ゆかりの皆様にはばっちり分かったのではないでしょうか。
さて、本編を見て思ったこといろいろ。
天竜川の河岸段丘の西の端が、浜松城のある辺り。
東の端は、磐田バイパスや東名高速を車で走ってくると、急に視界が開けて浜松の町が遠くにバーッと一望できる、あの私の大好きなロケーションの広がる場所。
暴れ天竜は、こんな広い範囲をまさに「暴れ」まわっていたのですね。
250年に250回の洪水!
そこに綿花が登場し、綿織物が盛んになり、織機の技術を持つ人々が集まり、織機からオルガン、オルガンからピアノへと楽器が作られていき…。
ピアノの材料となる木材は、天竜川の上流から運ばれ、遠州のからっ風がその木材を乾かし…。
私は材木の町「中野町」に生まれ育ちました。
昭和30~40年代、中野町のあちこちに材木屋さんがあって、私の親戚の家も材木屋さんを営んでいました。
親戚のおうちの横には、線路があって、材木を運ぶトロッコが通っていました。
もっと昔をたどれば、わが祖父は戦前から材木屋さんを営んでいて、中野町の発展の歴史とともにあったのです。
小学生のころ、町の中には、工場(こうば)があちこちにあり、キーンキーンという材木を切る音が響き、木の匂いがして、それは学校にいても聞こえてきました。
それらはまさに私にとっては中野町の原風景でありました。
天竜川の歴史をたどると、地元中野町にはこんな写真もあります。


ブラタモリにも材木の町浜松の写真が出ていましたが、中野町も昔はこんな風でした。
こうした材木が、ピアノを作ることにもなっていたなんて、
私はまるっきり想像したこともありませんでした。
でも、ハッとしました。
我が家の近くにピアノ工場があったことを思い出したのです!
木材が集まる中野町にピアノの工場があっても何らおかしくないですよね。
そうか、そうだったのか…と今更ながら納得。
ピアノの木工技術は、やがて、戦時中、戦闘機のプロペラを作る技術に応用されていきました。
そこから、金属製のプロペラづくりが始まり、その技術が戦後の金管楽器づくりへと応用されていく…。
航空自衛隊の資料館の木製のプロペラには、「日本楽器製」とありました。
ご存じのように、戦時中はこうした工場目がけて爆撃が繰り返され、浜松は空襲を多く受けた地方都市となったのでした。
動員学徒として命を落とした西遠の先輩方の無念も偲ばれます。
戦国時代の家康に始まり、度重なる洪水や悲しい戦争の歴史も経て、今の浜松があること。
「ブラタモリ」の45分間が教えてくれました。
最後に、タモリさんたちを浜松駅で出迎えてずっと案内をした太田好治さんは、私の母校 中ノ町小学校の先輩です。
古い講堂で太田さんのクラスが「待ちぼうけ」の寸劇を見せてくれて、太田さんが待ちくたびれた主人公の役を演じて喝采を浴びた時のことを思い出しました。
太田さんの弟さんとは同級生です。
自分の知り合いが全編通じて登場とあって、盛り上がりました!
中野町の誇りがたくさん画面に見え隠れした「ブラタモリ」、忘れられない放送回となりました。
土曜日の浜松市長講演会もさらに楽しみになりました。