高女37回卒業生の大中香代様。
昭和20年の2月に、小型機による機銃掃射を体験されました。
大庭 「東京そでし」の時には、六間道路を通学中に機銃掃射に遭われたというお話をされましたが、それはいつ頃だったんでしょう。
大中 昭和20年の2月ですね。それが、小型機で襲われた初めての体験です。あの時には、みんなで「通学隊」として朝並んで学校に向かって歩いていったら、富郎先生が学校の方から自転車で走って来られて、「帰れー、帰れー」って言ってらっしゃるの。馬込川の近辺だったと思いますね。「早く帰れー、うちに帰れー」って。何を言ってるの?なんで帰らなくちゃいけないの?と思った。
確かに、小型機がどうの、ってラジオでは言ってたんですけどね、私たちは小型機が何なのか全然知識がないからね。富郎先生が「今日はいいから帰れー」って言うから、「校長先生が帰れっていうのだから帰っていいんじゃない」って、それでみんな後ろ向いて、歩き始めて。最初は分かんないから普通に歩いてたわけですよね、他にもそういうグループがいくつかあったと思います。
萬福寺の辺りまで来た時に、飛行機がブンブン飛んでるんです。ところが、飛行機が飛んでるのは飛行場がある浜松では不自然ではない、ただ、いつもに比べてずいぶんカッコいい飛行機よね、となんて言ってたら・・・
大庭 日本の飛行機だと思ったわけですよね?
大中 そうそう、そしたら急に、ちょうど牛車がね、たぶん西向いて進んでいたと思うんですけど、その牛がね、突然ゴローンと倒れたんですよ。牛に命中したんですね。
大庭 機銃掃射ですね?
大中 そうそう、それでびっくりしちゃって、それで萬福寺が見えたからみんな走ったんです。私はもう一人の子と隊の一番後ろだったから、皆さん防空壕に入ったりしたけど、私たち二人は間に合わなくて、防空壕の手前にヤツデの木があったんだけど、二人でヤツデの木にしがみついたの。少しでも隠れるのがいいと思って。そしたら、もうぴゅんぴゅんぴゅんと砂が飛ぶんですよ、弾が落ちると。それは1メートル50ぐらいの間隔でした。で、ひょっと見たら、もう縦横十文字に砂が飛ぶんですよ。もう怖いなんてもんじゃなかったですよ。
その時は、日本楽器の本社が空襲されましたの。小型機に。
大庭 日本楽器というと、中沢の?
大中 はい、そうです。萬福寺から見ると、ちょうど萬福寺の隣みたいなところに日本楽器が見えるんですよね。そこに小型の爆弾が落ちたりなんかして。もうホントに、土が上がっていくのが見えるんですよね。そのうち、一度静かになってね、それで慌てて、私と友達の二人は、お寺の本堂の縁の下に入ったんですよね。防空壕は入るに入れなかったから、縁の下へ。ヤツデの葉よりは少しはいいと思って。それでも攻撃は1時間ぐらい続きましたかしら。もっと短かったかもしれないけど、私たちにしたら、1時間ぐらいの重みがありましたよね。
大庭 朝何時ごろのことだったんでしょう?
大中 その頃、学校は8時半に始まってたんで、みんなそれに間に合うように歩いてくから、攻撃は9時前後でしょうね。機銃掃射を受けながら、操縦席の、ゴーグルをかけたアメリカ兵が見えてね。後で聞いたら、割と若い、20歳前後だって皆が言ってましたけどね、「あの顔は笑ってたよ」って。
萬福寺から帰ろうとした時に、目の前に大きな金色の玉がグワンと落ちたの。みんな、ぎゃあって逃げたけど、何も音がしないの。そしたらね、ハーモニカの箱の端に金の細長いのが飾りで貼ってあるんですが、その玉だったの。
大庭 それが日楽の工場から飛んできたんですか?
大中 そうなんです、そうっとみんな近づいたら、「紙だ!」って分かってね。「紙だ」って言った時は、2人ぐらい腰を抜かしちゃったわね。
大中 西遠は、ちょうど六間道路の東の一番終わりなんですよ。あそこから馬込川までの間がすごい爆撃。
大庭 今は六間道路はもっと東に延びていますが、戦時中は西遠までが六間道路だったんですか?
大中 学校に曲がる角までが六間道路で、そこから先はまだ出来ていなかったです。昭和20年の3月か4月に、六間道路の両側が爆弾でやられましたね。その日は、私たち、爆撃されたその先へ先へと逃げたんですよ。防空壕に入っていると、「外に出ると危ないから、ここにいなさい」って防空壕の大人に引き留められたけれど、うちに帰りたいから、ってそこを出て、次の防空壕まで行って。道々どこの防空壕に避難するかはあらかじめ決めてあったの。必死で次の防空壕へ行ってね。次の防空壕へ行くと、前の防空壕が直撃を受けて。やっと家まで辿り着いたら爆撃が終わったのよね。
それでも次の日に学校へ行かなきゃいけないわけでしょ、うちの父が「あの辺が大変だから気をつけて行け」って言って。実際、六間道路に出たら、もう土の山です、両側。六間道路が全部爆弾で掘り返されていたの。防空壕のあったあたりも爆弾で掘り返されて。あ、ここはあのおばちゃんのいた所、っていう感じで。
大庭 全部、爆撃で?
大中 その頃はまだ焼夷弾じゃなくて、爆弾でしたからね、もうアスファルトが何にもないんです。こんなに変わっちゃたのかしらって。この爆撃で3名ぐらい知ってる方が亡くなったの、西遠の帰りに入れてくれた防空壕の人たち。
大庭 では、引き留められたけれど、そこを出て大中さんたちは助かったと。
大中 そうなんですよ。あの時怖いからうちへ帰ろう帰ろうって言ったけど、「あれは家が呼んだんだろうね」なんて後で言ってました。お世話になったおうちが全部やられて。一軒のうちなんか、爆弾で全部やられて、ふっと見たら2階の手前側が全部なくなってて。そこの押し入れの中にお布団がきれいに畳まれて入ってた光景がとても印象的でした。
大庭 六間道路沿いは全部やられちゃったんですか?
大中 あの時はまだ家数が少なかったですね。田んぼみたいなのがあって。残ってた家が直撃受けたり、道路に直径3メートル5メートルの穴がいっぱいあいてね。考えると、そこのおじちゃんにもお世話になったわね、ここのおばちゃんにもお世話になったわね、っていう人がたくさん出てきましたけどね。「私たち何にもすることができなかったわね」って、その言葉しかなかったですね。
六間道路で命からがらの体験をした大中さん。
6月の浜松大空襲では、もっと恐ろしい思いをなさいます。