はじめに
皆さんの中にはホンダの車に乗っている人もいるのではないでしょうか?では、ホンダの創業者は誰か知っていますか?実は、世界のホンダを創り上げた人は浜松出身の「本田宗一郎」なんです!
私達と一緒に”宗一郎の開拓路”をたどりましょう!!
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- 宗一郎の幼少期
- 「好奇」
- 東海精機重工業株式会社
- 「開拓」
- 本田技研工業株式会社
- 「開発」
- 「挑戦」
- マン島TTレース
- F1
- 「変革」
- 水冷空冷論争
- 退任後の宗一郎
- 「感謝」
- 受け継がれる想い
- 「継承」
- 未来へ
- 「未知導」
宗一郎の幼少期
「好奇」
本田宗一郎は1906年11月17日、静岡県磐田郡光明村(現在の静岡県浜松市天竜区)に誕生しました。本田宗一郎は幼少期から自動車や機械が好きでした。そのため、光明村に車が来たときにはずっとついて走り回ったり、授業を抜け出して、飛行機ショーを見に行ったりなど、様々なエピソードが残っています。このときの出来事が、未来の本田宗一郎を形作っています。


9月22日 西遠女子学園にて撮影
東海精機重工業株式会社
「開拓」
本田宗一郎は車を修理することでは物足りず、車のエンジンの部品づくりに熱中し始めます。アート商会浜松視点をあっさり弟子に譲り、「東海精機重工業株式会社」を設立して、たくさん試行錯誤しました。数多くの失敗を重ねて、ついにピストンリングを作る技術を手に入れます。
しかし… 第二次世界大戦の影響を受けて人間休業宣言をします。
本田技研工業株式会社
「開発」
戦後の日本は瓦礫が散乱しており、車移動はままならず、人々は自転車で移動していました。妻のさちが遠くまで自転車を漕いで買い出しに行くことが大変そうなのを見て、本田宗一郎は、自転車にエンジンを取り付けることを思いつきました。それが、
【バタバタ】
と呼ばれるものです。

そこから、本田宗一郎のクルマづくりへの情熱が再び蘇りました。
その後の宗一郎は「本田技研工業株式会社」を立ち上げ、熱狂的に研究・開発を進めます。




「出会い」
本田宗一郎は技術は誰も口を出せないほどでしたが、経営はからっきしだめでした。
そこで、経営・販売のプロの「藤沢武夫」と出会いました。この時、本田宗一郎も藤沢武夫も、出会った瞬間に互いの才能を瞬時に見抜きました。この「藤沢武夫」が、これから何十年も本田宗一郎のパートナーとなり、本田宗一郎を支えます。
「創出」
その後、本田宗一郎はエンジンの製造だけではなく、オートバイを作り始めます。
【スーパーカブ】

「蕎麦屋の出前が片手で運転できるクルマにしろ」「これは、スカートを履いた女性が前からまたぐクルマだ」
本田宗一郎は、バイクは男性が乗るものという概念をスーパーカブという製品によって壊しました。当時のバイクは前にエンジンがあり、後ろからまたぐものがほとんどだったが、利用者の使いやすさを考えて製品を作りました。本田宗一郎の技術を「人の役に立つため」に使ったのです。
「挑戦」
本田宗一郎は様々な海外のレースに「挑戦」しました。その代表となる例が「マン島TTレース」「F1」です。
マン島TTレース

1954年、本田宗一郎は、「ホンダを世界に進出させるため」「高みを目指して社員を鼓舞するため」に、「マン島TTレース」への出場を宣言しました。ホンダは初出場にして好成績を残し、「ホンダ」の名前を世界に轟かせました。
F1
1964年、本田宗一郎は「F1」出場を宣言します。最初、ホンダは、エンジンをイギリスの会社に提供するという契約をしていました。しかし、1964年1月、その契約を白紙にしてほしいと連絡があり、急遽シャーシの制作を他の会社に頼むことになりました。
本田宗一郎は性能だけでなく、見た目にもこだわりました。


宣言の翌年、ホンダはメキシコGPで初優勝を果たします。
「変革」
本田宗一郎は空冷エンジンの研究をするようになります。

一般的な車は水冷エンジンがほとんどでした。しかし、水冷は、水で冷やした後にまたファンで冷やさなければなりませんでした。それが二度手間だと思った本田宗一郎はファンで冷やす空冷エンジンの研究を始めました。
本田宗一郎は、空冷エンジンを搭載した【H1300】を作りました。しかし、本田宗一郎がこだわって作った空冷エンジンは重いため、タイヤの摩擦が激しかったり、空冷エンジンの理解が少なく、【H1300】はあまり売れませんでした。
この出来事が原因で、本田宗一郎に反発する人が出てきます。
マスキー法1が制定されると、ホンダはそれをクリアする車の製造を始めました。本田宗一郎は、「空冷エンジンでやれ」と若手の研究員に指示を出しました。ところが、若手の研究員は「水冷エンジンで行ったほうが良い」と思っていました。しかし、本田宗一郎は空冷エンジンに対してのこだわりが強く、困った研究員は藤沢武夫に相談しに行きます。この出来事は水冷空冷論争と呼ばれています。
水冷空冷論争が終わった後、本田宗一郎と藤沢武夫は後任にホンダを任せるようになります。藤沢武夫はほとんど会社には顔を出しませんでしたが、本田宗一郎は、毎日研究所に通い、社員たちにアドバイスなどをしていました。
ある日、社員から世代交代の必要性を訴えられ、本田宗一郎は社長を退任しました。
退任後の宗一郎
「感謝」
退任後の宗一郎は、絵画やゴルフなどをして、時間を埋めようとしました。
それだけでは足りずに、全国のホンダの販売店や、営業所、海外の事業拠点を回る
お礼参り
をしました。社員の中には本田宗一郎にあって涙した人がいたり、サインを求める人もいたそうです。本田宗一郎が社員から慕われていたことがよく分かる出来事です。
また、毎年一回、科学・技術の分野で優れた実績を上げた人に「本田賞」を与える
本田財団を設立
して、本田宗一郎が生きている間に、12人に表彰しました。
本田宗一郎は1991年にこの世を去りました。
受け継がれる想い
「継承」
現在の〈ホンダの夢〉は、
・人の役に立つこと ・世界のトップに立つこと
です。これは、本田宗一郎の想いと同じです。
「技術を人のために役立てる」「100%ではなく120%の技術を目指せ」
これは本田宗一郎が最も大切にしていた考え方です。この考え方があったからこそ、ホンダが世界に羽ばたいたのだと思います。さらに、その想いが、今のホンダにも受け継がれているのです。
未来へ
「未知導」
未来の車社会は、AIの普及により人間が運転しなくなったり、車を持つ人が減ったりするでしょう。変わり続ける車社会の中で、ホンダが変わらないものは何でしょう?それは、
- お客様のための製品作り
- 世界を目指す夢
- 120%の製品
- 需要を作り続ける
だと思います。この4つに共通することは、「本田宗一郎が大切にしていた信念」でもあるということです。その想いを未来へ繋いでいくことで、社員一人一人の行動や、製品一つ一つにも、その本田宗一郎の信念が表れていくのだと思います。
では、本田宗一郎の想いを継承するために私達ができることはなんでしょう?それは、
- 何事も諦めず挑み続けること
- 自分に妥協しないこと
- 人の役に立つために行動を起こすこと
- 常識にとらわれないこと
- 人に迷惑をかけないこと
本田宗一郎の考え方から私達が学ぶことはたくさんあるのではないでしょうか?みなさんも本田宗一郎の想いを後世へ継承するために取り組んでみませんか。
また、本田宗一郎について知ることで、浜松の魅力を一つ知ることができると思います!本田宗一郎について気になったことがあったらぜひ調べてみてください!!
参考文献
・一冊でわかる!本田宗一郎 「世界のホンダ」を創り上げた男の「挑戦の軌跡」【梶原一明 編著】
・本田技研工業株式会社 ホームページ
・Honda Gloval ホームページ
取材協力・写真提供
・モビリティリゾートもてぎ
・ホンダモビリティランド株式会社 パーク・ホテル事業部 パーク運営課の社員様
※サイト内の写真は8月26日 モビリティリゾートもてぎにて三年桜組HR展責任者が撮影したものです
注釈
- 1970年にアメリカで成立した法律。当時、アメリカでは大気汚染が深刻化していたため、上院議員のエドマンド・マスキーが提案したためマスキー法と呼ばれている(大気浄化法改正法とも呼ばれている)。これは、一酸化炭素(CO)と炭化水素(HC)、窒素酸化物(NOx)を大幅に減らすという厳しいものだった。そのため、世界中の自動車メーカーが達成不可能と主張した。 ↩︎


